石走る淡海の楽浪の大津は長門国大津郡の油谷湾であった | 日本の歴史と日本人のルーツ

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万葉集の歌の中で、今まで、石走る淡海とは荒波が岩場を襲う長門国大津郡の青海島(青海湖)のあたり、楽浪(ささなみ、細なみ)の大津(近江、志賀)は琵琶湖畔と理解した。しかし、長門国大津郡の油谷湾は向津具半島に遮られ、日本海の荒波を受けずに細波の海面であるので、楽浪の大津も長門国大津郡と理解できる。

従って、石走る淡海の国の楽浪の大津宮と連結した巻1-29番の柿本人麻呂の歌は、長門国大津郡の廃墟を歌っていると解釈できる。ただし、巻1-50番の歌は近江国の田上山の檜材を琵琶湖から宇治川に流す風景を石走る淡海と表現した!

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石走る青海島の北海岸

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楽浪の大津!長門国大津郡の油谷湾、目前の向津具半島の向こうは荒波の日本海、帝国海軍連合艦隊寄港地

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志賀の都(後の近江の大津宮、楽浪の近江)

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長門国大津郡の青海島(青海湖)あたりの行宮と、志賀の都(後に近江の大津宮と命名された)の二ヶ所が、当時、同時に存在して後世に混乱した!

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石走る淡海に対し楽浪の淡海と言う表現は無く、淡海は正しくは長門国大津郡青海島の青海湖のことであろう。


参考

① 近江の荒れたる都を過ぐる時に、柿本朝臣人麻呂の作る歌  万葉集巻1-29番

玉たすき 畝傍(うねび)の山の 橿原(かしはら)の ひじりの御代ゆ 生(あ)れましし 神のことごと 樛(つが)の木の いや継ぎ嗣ぎに 天(あめ)の下 知らしめししを そらにみつ 大和を置きて 青丹よし 奈良山を越え いかさまに 思ほしめせか 天離(あまざか)る 夷(ひな)にはあれど 石走(いはばし)る 淡海(あふみ)の国の 楽浪(ささなみ)の 大津の宮に 天の下 知らしめしけむ 天皇(すめろき)の 神の命(みこと)の 大宮は ここと聞けども 大殿(おほとの)は ここと言へども 春草の 茂く生ひたる 霞立つ 春日(はるひ)の霧(き)れる ももしきの 大宮処(おほみやどころ) 見れば悲しも(1-29) 

【語釈】◇玉たすき 「畝傍」の枕詞。◇畝傍の山 大和三山の一。奈良県橿原市。◇橿原のひじりの御代ゆ 神武天皇の御代から。◇神のことごと 日の御子の子孫たる天皇のことごとこくが。◇樛の木の 「いや継ぎ継ぎに」の枕詞。◇そらにみつ 「大和」の枕詞。石走る 「淡海」の枕詞。◇楽浪の 「大津」の枕詞。◇大津の宮 天智天皇の近江大津宮。◇ももしきの「大宮」の枕詞。  

反歌 (二首) 

楽浪(ささなみ)の志賀の辛崎(からさき)さきくあれど大宮人の船待ちかねつ(1-30) 

【通釈】志賀の辛崎は、その名のように幸(さき)く――無事平穏であるけれど、大宮人の船を待ちかねている。 

【語釈】◇楽浪の 「志賀」の枕詞。◇辛崎 滋賀県大津市唐崎。琵琶湖の西岸。◇大宮人 近江朝に仕えた人々。◇船待ちかねつ 待ちかねている。いくら待っても船が来ないということ。 

楽浪の志賀の大曲(おほわだ)淀むとも昔の人にまたも逢はめやも(1-31) 

【語釈】◇大曲  湾曲しているところ。◇昔の人  具体的にはかつての近江朝の官人たちを指すのであろう。◇またも逢はめやも 再び逢うことが出来ようか、いや出来はすまい。 (出典)千人万首

天智天皇が都を置かれた当時、ここは志賀の都と呼ばれた。琵琶湖はまだ命名されていなく無名であった。近江とか大津宮の名称は712年完成の古事記からであった(参考)。

wikiによると、跡地は「古津(古い港の意味)」と呼ばれるようになるが、平安京遷都直後の桓武天皇(天智天皇の曾孫)の詔(794年(延暦13年)11月8日、ユリウス暦では12月4日))によって大津の呼び名に復された。


②  藤原宮之役民作歌 万葉集巻1-50番

[原文] 八隅知之 吾大王 高照 日<乃>皇子 荒妙乃 藤原我宇倍尓 食國乎 賣之賜牟登 都宮者 高所知武等 神長柄 所念奈戸二 天地毛 縁而有許曽 磐走 淡海乃國之 衣手能 田上山之 真木佐苦 桧乃嬬手乎 物乃布能 八十氏河尓 玉藻成 浮倍流礼 其乎取登 散和久御民毛 家忘 身毛多奈不知 鴨自物 水尓浮居而 吾作 日之御門尓 不知國 依巨勢道従 我國者 常世尓成牟 圖負留 神龜毛 新代登 泉乃河尓 持越流 真木乃都麻手乎 百不足 五十日太尓作 泝須<良>牟 伊蘇波久見者 神随尓有之

[訓読] やすみしし 我が大君 高照らす 日の皇子 荒栲の 藤原が上に 食す国を 見したまはむと みあらかは 高知らさむと 神ながら 思ほすなへに 天地も 寄りてあれこそ 石走る 淡海の国の 衣手の 田上山の 真木さく 桧のつまでを もののふの 八十宇治川に 玉藻なす 浮かべ流せれ 其を取ると 騒く御民も 家忘れ 身もたな知らず 鴨じもの 水に浮き居て 我が作る 日の御門に 知らぬ国 寄し巨勢道より 我が国は 常世にならむ 図負へる くすしき亀も 新代と 泉の川に 持ち越せる 真木のつまでを 百足らず 筏に作り 泝すらむ いそはく見れば 神ながらにあらし

[仮名] やすみしし,わがおほきみ,たかてらす,ひのみこ,あらたへの,ふぢはらがうへに,をすくにを,めしたまはむと,みあらかは,たかしらさむと,かむながら,おもほすなへに,あめつちも,よりてあれこそ,いはばしる,あふみのくにの,ころもでの,たなかみやまの,まきさく,ひのつまでを,もののふの,やそうぢがはに,たまもなす,うかべながせれ,そをとると,さわくみたみも,いへわすれ,みもたなしらず,かもじもの,みづにうきゐて,わがつくる,ひのみかどに,しらぬくに,よしこせぢより,わがくには,とこよにならむ,あやおへる,くすしきかめも,あらたよと,いづみのかはに,もちこせる,まきのつまでを,ももたらず,いかだにつくり,のぼすらむ,いそはくみれば,かむながらにあらし

[左注] 右日本紀曰 朱鳥七年癸巳秋八月幸藤原宮地 八年甲午春正月幸藤原宮 冬十二月庚戌朔乙卯遷居藤原宮

[語釈] あまねく統治するわが天皇  高く輝く日の御子  藤原の野に国を統治なさろうと  宮殿も高々と作って支配なさろうと  神であるままにお思いになれば  天も地もともにお仕えする  (石走る)淡海の国の田上山の檜の荒材を 宇治川に玉藻のように浮かべて流している  それを引き上げようと働く御民は  家のことは忘れ  わが身も顧みず  まるで鴨のように水に浮かんで働く  日の御子の朝廷が支配していない国も寄りついてくるという  巨勢道から  わが国は永遠に栄えるだろうとの兆しを図に持つ神聖な亀も  新たな御代だとして出てくる  そんな泉川に運んできた真木の荒材をいかだに組んでは  川をのぼらせている  せっせと働く民の姿を見ると  これも天皇がさながらの神だからにちがいない(参考)

朱鳥7年は692年、藤原宮の建設途中の時期にある。この時期には、長門国大津郡も志賀の都も廃墟となり、区別出来なくなり、近江国を溢水(あふみ)の意味で淡海国(あふみのくに)と書いた!公式には712年完成の古事記から近江国、大津宮となった(参考)。


③ 石走る
いわばしる
いはばしる

⑴動詞。⑵枕詞。⑴は水が岩石にぶつかって勢いよく跳ね返り、水しぶきの飛び散る様子を表わす。「はしる」は水平の移動にも、上下の跳躍にもいう言葉。水が「はしる」という表現は、記紀景行天皇条でヤマトタケルが東征の途上渡った荒海の名「走り水」に見える。紀には、タケルが、これは小さい海だから「立跳(.(たちはしり)」でも渡れよう、と言ったと記している。万葉集に1例のみで、岩の上をほとばしり流れる(「石走り激ち流るる」)泊瀬川を、絶えることなくまた見に来よう(6-991)と歌う。⑵枕詞としての用法は、⑴の状態を表わす語として、「垂水」(7-1142、8-1418、12-3025)「滝」(15-3617)にかかる。「垂水」は滝の小さいもの。また、「淡海国」(1-29、1-50)「淡海縣」(7-1287)のように、地名の「近江(淡海)」にかかる例もあるが、これは溢れる水の意の「溢水(あふみ)」と地名「近江(あふみ)」との音の共通性によるもの。なお、「甘南備山」にかかる例が1例見られるが(13-3230)、かかり方未詳。神奈備山から見える飛鳥川の情景によって続けたかとみる説(『全釈』)がある。「いはばしの」の訓みもある。谷口雅博


④  いっ‐すい【溢水】
[名](スル)水があふれること。また、水をあふれさせること。「大雨で河川が溢水する」

この溢水を「あふみ」と訓読みし、石走るに対応させて万葉集巻1-50番を歌った。すなわち、石走る溢水を琵琶湖で想像すると、田上山の檜材を琵琶湖から宇治川(瀬田川)経由で京にまで流す風景であろう!

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滋賀県の田上山は日本には珍しい完全なはげ山である。 古代の都や大寺院建築でここの木材を利用した。太古の昔は檜の枯木が鬱蒼と生い茂っていたが、藤原京造営やその後の平城京遷都や寺院の造営などに際して、瀬田川、木津川を利用した水運による利便性と山中の木々の良質さから田上山のヒノキを数万本伐採して用いたとされている。このため田上山ははげ山となり、雨が降るたびに大量の土砂が瀬田川に流れ込み、大規模な氾濫を繰り返してきた。

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鎌倉再建時の東大寺大仏殿は、長門や周防の国から伐採された檜の巨材を使っている


⑤  細波の(ささなみの、楽浪の)→近江、大津、志賀、なみ、寄る、夜 など


⑥  岩(石)走る(いはばしる)→淡海(あふみ)、垂水(たるみ)、滝










11 帝国海軍連合艦隊の油谷湾寄港