万葉集における長門国に関する歌 | 日本の歴史と日本人のルーツ

日本の歴史と日本人のルーツ

日本の歴史と日本人のルーツを解明します。

基本的に山口県下関市を視座にして、正しい歴史を探求します。

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① 角島の迫門(せと)の若布(わかめ)は人のむた荒かりしかどわがむたは和布(にきめ)  万葉集巻16-3871番  読人知らず

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② 長門なる沖つ借島(かりしま)奥まへて吾(あ)が思(も)ふ君は千年にもがも  万葉集巻6-1024番  長門守巨曽倍對馬(こそべのつしま)朝臣の歌

天平10年(738)巨曽倍対馬(こそべのつしま)が都で催された橘家の宴席で、右大臣橘諸兄(たちばなもろえ)に詠んだ詩。長寿を願った歌でもある。

この’かりしま’は後の<五代集歌枕>や<奥義抄>にも名があげられている。これとは別に細川幽斎(細川玄旨法印)の<九州道の記>に海路を石見から長門に入った直後に〔借島〕を詠んでいる歌がある。この(かり島)はそのあと見えてくる小畑浦(萩)や瀬戸崎浦(長門市)が記される前であり、石見につづく海である事から江崎沖と考えられる(参考)。細川幽斎が阿武の奈古に立ち寄った際、鹿島の景観を「皆人のいのち長門とたのめども世はかりしまの波のうたかた」と詠んだとの阿武町の説もある。

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沖津借島の候補地は他に蓋井島がある。


③  昨日こそ 船出はせしか 鯨魚(いさな)取り 比治奇(ひぢき)の灘を 今日見つるかも  万葉集巻17-3893番  読人知らず    (参考)

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響灘、白島(左)、吉見の加茂島(右)


④ 鯨魚取り、浜辺を清み、うち靡き、生ふる玉藻に、朝なぎに、千重波寄(よ)せ、夕なぎに、五百重波寄す、辺つ波の、いやしくしくに、月に異に、日に日に見とも、今のみに、飽き足らめやも、白波の、い咲き廻れる、住吉の浜   万葉集巻6-0931 車持千年 (参考)

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住吉の浜(住吉神社につながる響灘の海岸、対岸は北九州)


     万葉集巻1-20番、巻1-21番、巻10-1825


     万葉集巻2-153番、巻3-266番


      万葉集巻7-1390、巻3-2435番


     万葉集巻16-3838番、巻9-1780番


⑥-4 近江の荒れたる都を過ぐる時に、柿本朝臣人麻呂の作る歌
       万葉集巻1-29番


       万葉集巻13-3239番


⑥-6 山部赤人の歌、3首(1首は重複)
        万葉集巻3-357、358、359
         (重複する3-357は⑧でも検討)


⑥-7 淡海の海がある歌の一覧


⑦  菅原道真公の歌、古今和歌集に1首
     古今和歌集1697番


⑧  万葉集の3-354と3-3573-355も候補地として、旧大津郡(長門市油谷町から日置町、青海島)にあるようだ!






11 万葉集13-3243、3244も長門国の阿川または奈古での歌か可能性が高い(参考)。


参考

国防上、響灘から日本海側は重要であった。