山の中の厳島神社、田耕神社 | 日本の歴史と日本人のルーツ

日本の歴史と日本人のルーツ

日本の歴史と日本人のルーツを解明します。

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右下の田耕神社(厳島神社)は豊北町滝部と豊田町の中間にあり、左の土井ヶ浜海岸の神功皇后神社(蛭子社)とを結ぶ道がある。

浜出祭は山の民が祀る厳島神社と、海岸の海の民が祀る蛭子社の間で催される。山の民と海の民の交流との解釈がある。ここでは、海の民の宗像海人族に助けられて渡来した渡来人たち、すなわち山の民の感謝の祭りと解釈する。


参考

豊北町の田耕地区の田耕神社は複数の神社を合祀したものであるが、その中で最も古い祭りの形式を持った神社が厳島神社であった。その祭りは浜出祭と呼ばれ蒙古襲来(元寇)の兵の鎮魂となっているが、さらに古い祭りの形式を保っている。

具体的には、浜出祭は同町神玉地区神功皇后神社の中の蛭子社と田耕神社の中の厳島神社の二社で行われる。山口県無形民俗文化財に指定され、七年に一回行われる神事で豊北町の東端の山側から14キロメートル離れた西端の海岸まで御神幸を行う。御神幸は田耕神社から200人余武具に身を固め装いも美しい人馬の行列である。途中、神功皇后社の出迎えを受け、400人近い行列となって土井ケ浜に向かう。伝説では蒙古来襲の兵の霊を鎮めるとも言われているが山と海、男神、女神の再会の祭りであり、陰陽和合の祭りとも言われる(参考)。

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厳島神社は宗像海人族の神である市杵島姫命をはじめとする宗像三女神を祀るものであり、通常、海や人工池など水辺に祀られている(参考)。宗像・厳島系の神社は日本で5番目に多いとされ、そのほとんどが大和及び伊勢、志摩から熊野灘、瀬戸内海を通って大陸へ行く経路に沿った所にある(wikiより)。

これに対し、流された蛭子神が流れ着いたという伝説は日本各地に残っている。日本沿岸の地域では、漂着物をえびす神として信仰するところが多く、ヒルコがえびす(恵比寿・戎)と習合・同一視されるようになった(wikiより)。蛭子神は恵比寿神、事代主命、武内宿禰、安曇磯良、猿田彦などと同一視されており、海の民たちが渡来人たちを神と崇めているのであろう。

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八坂神社の蛭子社は「えべっさん」の原点: 「商売繁昌で笹もってこい!」のかけ声でおなじみの「えびす信仰」は、日本各地に拡がっています。その「えべっさん」が、八坂神社の境内にいらっしゃる。 全国的に名の知られた大阪の今宮戎神社のえべっさんは、八坂神社の氏子が今宮に移り住んだとき、八坂神社の「えべっさん」をその地にお祀りしたことに始まります。そのご縁から、今宮戎神社からは毎年、八坂神社の祇園祭の折りには幣帛を、大晦日には鯛をご奉納いただきます。八坂神社からは1月8日に、今宮戎神社の十日戎に先だっての献茶祭に神水を持参してお供えします(参考)。八坂神社は渡来人である秦氏が創建した。


二見浦夫婦岩お稲荷さんの故郷、宇賀狗留孫山華山などが沖ノ島の真東にあたり、蛭子社(神功皇后神社)のある土井ヶ浜も近くに位置している。この土井ヶ浜には渡来系弥生人の遺跡もあり、朝鮮半島や中国大陸からの渡来に適した地域であった。