お稲荷さんの故郷、宇賀と福徳稲荷神社 | 日本の歴史と日本人のルーツ

日本の歴史と日本人のルーツ

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基本的に山口県下関市を視座にして、正しい歴史を探求します。

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山口県下関市豊浦町に宇賀と呼ぶ地域がある。この名前から宇迦之魂神(ウカノミタマノカミ)を思い出した。

別名を、宇賀之売命(ウガノベノミコト)、倉稲魂尊(ウガノミタマノミコト) 、宇賀魂命(ウガタマノミコト)、宇賀御魂大神(ウガノミタマノオオカミ)、宇賀御霊大神(ウガノミタマノオオカミ)。神性・神徳は穀物の神、農耕の神、商工業の神です。古事記では須佐之男命と神大市姫命(大山祇命の娘)との間に生まれ、大年神は兄としている。日本書紀では本文には登場せず、神産みの第六の一書において、伊邪那岐命と伊邪那美命が飢えて気力がないときに産まれたとしている。名前の「ウカ」は穀物・食物の意味で、穀物の神であり、稲荷神(お稲荷さん)として広く信仰されている。

古事記によると父親の須佐之男命が付近を往来しており、また兄の大年神はやはり近くの長門市の向津具半島で生まれた大山咋命の父親であった。また、日本書紀ではやはり向津具半島近くに居た伊邪那岐命の子としている。すなわち、お稲荷さん(宇賀之売命、宇迦之御魂神)は、ここ宇賀で生まれたと言えるかも知れない。


参考

京都の伏見稲荷大社が総本宮で、和銅4年(711)に秦公伊呂具(はたのきみいろぐ)という人が祭ったのが最初となっている。この秦公伊呂具は代表的な渡来人であり、正に日本列島への初上陸地点が此処あたり、山口県下関市豊浦町の宇賀であった。


ここから北東方向に滝部があるが、滝部八幡宮の境内にある赤崎社に宇迦之魂神を祀っている(参考)が、豊受大神と同一神と説明していた。


大山咋命を祀る松尾大社や日吉大社も秦氏が創建した。







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福徳稲荷神社
〒759-6303  山口下関市豊浦町宇賀2960

祭神
倉稻魂大神(うかのみたまのおおかみ)(谷川稲荷)下社
(配祀)
大宮能賣大神(おおみやののめのおおかみ)(谷森稲荷)中社
大市比賣大神(おおいちひめのおおかみ)(谷嶽稲荷)奥社

由緒
人皇12代景行天皇安須波の原に御臨幸のみぎり、犬鳴山の姫菖蒲を叡覧ありて、その美景に見いられて、いぬことを忘れる。即ちいぬなき山というと伝えられ、それ以来この所を犬鳴山(稲城山)と称しこの景勝地に壱千余年の古より鎮座。古歌に長門なる稲城山の姫あやめ時ならずして如月に咲くと詠まれている。

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北浦海岸の南西方向を望む。鳥居の向こうは室津湊の甲山あたり。

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上から長門二見、宇賀本郷、福徳稲荷神社(⭕️)




由緒その2

御由緒は1000余年の昔、宇賀の湯玉在(ゆたまざい、鎮座地より北に約1.8㎞)に、一本釣りの漁師である年老いた父と仲睦ましい姉弟がいて貧しいながらも幸せに満ちた日々をおくっていたといいます。

ところがある日のこと、いつもの時刻になっても父を乗せた舟は、波止場で待つ姉弟のもとに帰って来ませんでした。その日から来る日も来る日も姉弟はずっと犬鳴岬に立って、じっと沖を見つめて父の帰りを待ちました。やがて季節は移ろい、チラホラと白い雪が舞い散る寒い冬がやって来ても肩を寄せ、かばいあうように寄り添って父の帰りを待つ2人の姿に、浦人(漁民)の心配は徐々につのって来ましたが、そのいじらしさに、浦人は犬鳴鼻に舟を向けても顔をそむけてきました。

しかしある嵐の日のこと、猛り狂う白い大波のしぶきの合間に肩を抱き合う姉弟の姿がチラチラと見えていましたが、次から次に襲いかかる白い大波の向こうに、懐かしい父親の姿を見たのでしょうか・・・2人の姿は見えなくなりました。

あまりの痛ましさに浦人は、犬鳴山のほとりに小さな祠を建て、往き還らぬ父親と姉弟の霊を祀りました。その後、3人のお祭りを盛大にしたいと、京都の伏見稲荷大社を勧請し、現在の千本鳥居参道内に稲荷大神とともに三座を祀り、奥座は姉稲荷、中座は弟稲荷、前座は父稲荷と今に伝わっているそうです。

現在の社殿は、昭和46年に造営されたもので、三社の御祭神を遷座し、石碑に刻まれていた福徳を崇め、「福徳稲荷神社」と称されるようになったそうです。