仁徳天皇が行幸して見たアジマサの島は沖ノ島 | 日本の歴史と日本人のルーツ

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オノゴロ島の場所を古事記の後半にある仁徳天皇の行幸から特定する。従来、難波(大阪)から淡路島に立ち寄り、オノゴロ島を見て、吉備国(岡山県)に行くと解釈した。しかし、腑に落ちなかったと言うのが正直であった(参考)。決定的な解決の糸口が得られた!アジマサの島はアジマサの生える島であり、沖ノ島が北限のアジマサの島であった。淡路島を含む大阪湾や播磨灘には自生していなかった!

アジマサの島を沖ノ島とすると、拙著のオノゴロ島が俵島、淡洲と淡道嶋が向津具半島、サケツ島が角島に対応しそうだ!仁徳天皇が立たれた視点は淡道嶋すなわち向津具半島の山頂になろう。

それではナニハノサキ(難波の崎)や吉備国はどう考えればよかろうか?難波の崎は何処か波の荒い海岸であろう!たとえば山陰側の海岸あたりを想定すれば良かろう!吉備国は岡山県で不都合は無い!

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アジマサの島(沖ノ島)

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サケツ島(角島)

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淡道嶋と淡洲(向津具半島)

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オノゴロ島(俵島)


参考

❶ 仁徳天皇の行幸

古事記 下巻(wikiより)
黒日売(くろひめ)が吉備の国へ帰郷した際に、大雀命(仁徳天皇)は後追い吉備の国へ行幸するが、道中詠った歌にはオノゴロ島が登場する。

原文
於是天皇 戀其黒日賣 欺大后曰「欲見淡道嶋而」 幸行之時 坐淡道嶋 遙望歌曰、『淤志弖流夜(おしてるや)、那爾波能佐岐用(なにはのさきよ)、伊傳多知弖(いでたちて)、和賀久邇美禮婆(わがくにみれば)、阿波志摩(あはしま)、淤能碁呂志摩(オノゴロ島)阿遲摩佐能(アジマサの)、志麻母美由(しまもみゆ)、佐氣都志摩美由(さけつしまもみゆ)』乃自其嶋傳而幸行吉備國。

口語訳
是(ここ)に天皇、其(そ)の黒日賣を恋ひ、大后欺き「淡道嶋を見むと欲(おも)ふ」と曰いて幸行する時、淡道嶋に坐(いま)して、遥に望みて歌ひて曰く『押してるや、難波の崎から出で立ちて、我が国見をすると、アハ島 オノゴロ島 アジマサの島も見える、サケツ(先つ)島も見える。乃(すまわ)ち其の島傳(つた)いて、吉備の国に幸行する。


❷ オノゴロ島あたりの島々

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1 淡洲(アハ島、①)と淡道嶋(②)、2 オノゴロ島(俵島、③)、3 サケツ島(角島)、4 アジマサの島(沖ノ島)

向津具半島の形状に着目する。俵島も含めた向津具半島全体が団子三兄弟になっているが、①半島の付け根から東、宇津賀地区(千畳敷、竜宮の潮吹き、東後田の棚田)から青海島までが淡洲、②特に楊貴妃の里辺りの広い半島本体が子淡道之穂、俵島の付け根から油谷島が(子淡道之穂の)狭別島(又は淡道嶋)、③先端の俵島がオノゴロ島と考えられないか(参考)


❸ アジマサについて

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檳榔(びろう)

檳榔は別名蒲葵(ほき)、コバ、アジマサとも呼ばれ、記紀神話の時代より神木として登場して、「ヤシ科の常緑高木。九州以南の海岸に近い森林に自生。高さ3~10メートル。幹は直立し、頂に葉が集まってつく。葉は手のひら状に深く裂けていて、垂れ下がる。雌雄異株。春、葉の付け根から枝分かれした柄を出し、黄白色の小花を多数つける。実は熟すと青磁色。」の特徴がある(参考)。東アジアの亜熱帯(中国南部、台湾、南西諸島、九州と四国南部)の海岸付近に自生し、北限は福岡県宗像市の沖ノ島(wikiより)。