島根県と鳥取県の間の日野川と滋賀県の琵琶湖東岸の日野川には、共に日野町がある。下関から出雲経由で琵琶湖東岸に、663年の白村江の戦いの敗戦による百済遺民が入植したことが示唆される(参考)!さらに、福井県越前市の日野川についても関連が伺える。
実は、下関市豊田町に大字日野の地名と木屋川の支流としての日野川がある。
以上4ヶ所(下関市豊田町大字日野、鳥取県日野郡日野町、福井県越前市あたり日野川流域、滋賀県蒲生郡日野町)の相互に、付近の複数の地名の相関を調べてみると、多くの関連地名が存在した!
滋賀県琵琶湖東岸にも日野川沿いに豊田があった。
鳥取県日野郡日南町萩原
福井県の日野川の上流に萩原町があった。
中山の地名が琵琶湖東岸の蒲生郡日野町と下関の豊田町大字日野のそれぞれの近くにあった
参考
① 滋賀県東岸の日野川
支流に出雲川がある。下流域に蒲生野、野洲、竜王、豊浦(安土町内)と山口県下関市内と同一地名が4ヶ所あり、百済遺民は山口県下関市から滋賀県の琵琶湖東岸に入植したと考えられる(参考)!
鳥取県の西部に位置し、南は中国山地の三国山(1004m)を源流とし、その源流付近には八岐のオロチやアメノムラクモノ剣の伝説で有名な船通山をはじめ、道後山など標高1000メートルを超す山々が連なっている。須佐之男命は、出雲の国の「肥の河の川上」にある鳥髪の地に降り立ったという。
記紀が言う「肥の河」と「日野川」はどちらも船通山の近くを源流としている。八岐のオロチの退治された舞台は斐伊川が定説となっているが、いささか疑問の余地があると思われる。須佐之男命と日野川のイメージがあまりにも合い過ぎている。記紀および出雲国風土記等の文献的史料と、考古資料の間には大きな乖離が存在する。
「ひのかわ」と「八岐大蛇」と「須佐之男命」に関する文献的史料、伝承、および考古資料等を総合的に解釈すると、「ひのかわ」は斐川では無く、「日野川」であった可能性が示唆される(参考)。
③ 福井県の日野川
日野川上流に日野山
九頭竜川の支流となっている。出雲神話の八岐大蛇との関係を窺わせる。したがって、これまで百済遺民の入植先を検討していたが、新羅神社を見つけた!川名の由来についての以下の研究では、新羅とのつながりが示唆された!
天平神護2年(766)東大寺領道守荘開田絵図によると「味真川」となっています。これは浅水川の上流が味真野に始まるためといわれます。また、「万葉集」の大伴家持の長歌に「叔羅川」の名前が出てきますが、これは国府(武生市)近辺を流れる日野川を指しているといわれます。叔羅川と書いて「しくらがわ」「しらきがわ」と称しました。「源平盛衰記」によると寿永2年(1183)の燧が城(南越前町今庄)攻めの中に「日野河」と書かれており、日野山の西側を北流するために名付けられたと伝えられています。近世になると中上流を「日野川」、中下流を「白鬼女川」と呼んでいました。また、水源の夜叉が池に祀る信羅貴神社の由来から「信羅貴川」としている古文書も見られます。「日野川」という名前に統一されたのは、明治初年成立の「越前三大川沿革図」に、その名が見られることから、明治以降であろうといわれます。
④ 内陸の福知山あたりを陸行して、琵琶湖東岸に入植するルートも考えられる!
⑥ 埼玉県さいたま市大宮区の氷川神社はまさに出雲、斐伊川(正しくは日野川)から関東へ入植した渡来人の氏神であった。関東平野にあちこちにある氷川神社が各入植地の氏神であろう。
⑨ 地名の日野と、川名の日野川の両方が揃うのは、鳥取県と島根県の境、琵琶湖東岸、福井の九頭竜川の支流域、そして下関市豊田町あたりと、他2ヶ所程度であった(参考)。
10 日野の西隣りの下関市豊田町大字江良は百済と言うより、高句麗からの渡来人にゆかりの地名か!
11 同じく下関市豊田町大字江良の地に豊浦山神上寺がある。白村江の戦いの敗戦後にの700年前後に華山の頂上に建立されたが、現在は江良に下ろされた!西の高野山と呼ばれたとか!多くの僧兵を擁していたのであろう!
13 渡来人関係の年表について
14 古墳分布