下関市安岡と滋賀県野洲市の関係 | 日本の歴史と日本人のルーツ

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山口県下関市の地名に安岡、蒲生野、竜王山、豊浦があるが、これに対し滋賀県の琵琶湖東岸に野洲市、蒲生(+野)、竜王町、豊浦(現在、安土町内)が対応することを指摘した(参考)。この野洲が安岡の安に対応することが、ほぼ確信出来た。すなわち、7世紀後半の白村江の戦いに破れた百済遺民が下関経由で琵琶湖東岸に入植し、安氏を名乗り、国造を務めたのであろう。壬申の乱では、その関係で御恩のあった天智天皇のお子様である大友皇子に味方したのであろう!

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安岡から横野海岸と響灘

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安岡海岸と響灘、村崎鼻、この先に沖ノ島がある。

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野洲市鳥瞰、琵琶湖上空から

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野洲川


参考

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安国造(やすのくにのみやつこ・やすこくぞう)は近江国東部(琵琶湖東岸)を支配した国造。淡海安国造・近淡海安国造とも。

建部大社・・・滋賀県大津市。祭神は日本武尊。近江国一宮。

子孫

大陀牟夜別・・・淡海国造。安国造の祖。彦坐王3世孫。娘の両道入姫命は日本武尊に嫁いで稲依別王を産んだ。

犬上御田鍬・・・飛鳥時代の外交官。遣隋使。初代遣唐使。

安(野洲)の本家は、壬申の乱(672年)で負けた大友皇子の側についたらしく、乱後は力を弱め、その東西にいる犬上君氏や建部氏にとって代わられたと考えられます。ただし、犬上君と建部の祖はともに稲依別(イナヨリワケ)で、稲依別王は、安国造の祖であるオホタムワケの孫だと古事記に記載されています。大友皇子(弘文天皇)は、母が伊賀采女宅子で皇族ではないため支援が少なかったとおもわれ、血筋でまさるオジの大海人皇子(天武天皇)が勝ちます。それでも実際に大海人皇子側で戦ったのは主に中小の氏族で、近江からはワニ部、五百木部(伊福部)、イカゴ、坂田、息長君、羽田公などが記録されています。なお、大友皇子のひ孫のひとりが、天皇の漢風送り名を奏上した近江三船(オウミノミフネ)というヒトです。


御上神社、野洲市三上
野洲市立銅鐸博物館、野洲市辻町57

倭国時代の近江の豪族
それによると、湖北は息長(おきなが)氏、湖西は和邇(わに)氏(現在も和邇の地名が残る)が支配し、物部郷のある湖南地域は安(やす)氏(現在も野洲の地名が残る)が支配していたという。息長氏と和邇氏は倭国王に后妃を配した豪族で、ともに製鉄技術をもっていたとされる。

安氏は近江氏とも呼ばれ、大岩山の銅鐸で見られるように、倭国で制作された銅鐸を各クニや機関に配るという国策に深く関与していたのだろうと水野先生は推定されている。つまりこの一帯の青銅器文化の担い手は安氏であったのかも知れない。

息長、和邇両氏は大和で倭王を補佐し、安氏は近江のクニを管掌していたとの考えである。














近江國蒲生郡(蒲生野)の一帯を古くは、佐佐木庄と呼ばれる以外にも、「鷦鷯郷(ササキノゴウ)」「篠笥庄(ササケノショウ)」などと呼んだらしく、特に、鷦鷯郷(ササキノゴウ)などは、大鷦鷯(オオサザキ)命との関連性を伺わせます。一説に、古代に、仁徳天皇の御名代部として、全国的に雀部(ささべ)が置かれましたが、この近江の蒲生郡の辺りに、その雀部があったのではないか?とも言われています(参考)。