真の海北道中 | 日本の歴史と日本人のルーツ

日本の歴史と日本人のルーツ

日本の歴史と日本人のルーツを解明します。

基本的に山口県下関市を視座にして、正しい歴史を探求します。

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海北道中とは、大陸、朝鮮半島から日本への帰国ルートであった。通常の博多、壱岐島、対馬ルートは出国に適していた。風と海流を利用した江戸時代までの航海ルートと現在のエンジン付き船舶とは全く異なることを知って欲しい!

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沖ノ島を中心とした航路、黄色が海北道中、赤が出国ルート

黄色のルートの対馬海峡横断ルートは秋から冬の季節風が有効に働き、対馬海峡に沿って日本海に向かうルートは常に安定した対馬海流が有効となる。

このルートを大陸の国々に知られると、日本列島が危険にさらされる恐れがあるため秘密に保つ必要がある。これが沖ノ島祭祀の理由であり、宗像三女神、宗像氏が重要視された理由である。お言わず様のルールもこれが起源である。

赤の出国ルートは対馬海流に逆らわない様に、沿岸に沿って壱岐島辺りまで航海し、反転して海流に乗って対馬北端に達する。また、北西方向の大陸に向かうには、対馬列島と朝鮮半島に沿って盧を漕いだり、局地的な海流や風の乱れを利用することになる。対外的にこのルートの逆行を推奨したのは、最も効率の悪いルートが国防に適していたからで、元寇の時に実証された!ついでに神風まで吹いてくれた!


参考







宗像海人族は伊勢志摩まで進出した、現在、海人の北限は岩手県久慈市あたり




日韓併合時、プサンには多くの対馬人が滞在していました。対馬北部の佐須奈湾から手漕ぎ船でプサンの歯医者に行った、髪を切りに行った、映画を見に行った、という話も聞きます。対馬縦貫道が全線開通するのは1968年(昭和43年)のことであり、大戦中は対馬北部から対馬南部へ行くよりも、対馬北部からプサンに渡るほうが時間がかからなかったのです(参考)。