卑弥呼は下関市を拠点に大和と北九州を行き来していた? | 日本の歴史と日本人のルーツ

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山口県下関市豊田町の北部、長門市との境には卑弥呼伝説や神功皇后伝説がある。安徳天皇陵墓参考地とその周辺である。眉唾ものと思っていたが、本当かも知れない!例えば、卑弥呼、台与、神功皇后が実在したなら、少なくともここを通過した!


下関市の山中で海岸線から遠いが、豊田町には大和朝廷の班田収授による条理制の田地があり、景行天皇、仲哀天皇、神功皇后が祈祷した華山、渡来人の滞在地の日野があった。北長門海岸の長門市(旧深川)から西端の向津具半島や油谷湾は渡来人の到着港であった。すなわち、安徳天皇陵墓参考地の辺りは常に神代の大和朝廷高官や渡来人達が往来するルートであった!

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1 豊田湖、卑弥呼の冬の居城、神功皇后伝説地、安徳天皇陵墓参考地    2 豊田町日野、華山    3 蒲生野方面    4 大津郡青海島、油谷湾、向津具半島    5 川棚、小串方面(響灘沿岸)


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豊田町の歴史に、水道用水として作られた豊田湖の湖底に天台宗の観音寺跡があるとか!


参考

① 長門国の歴史の一説
下関市豊田湖湖畔に日女尊(ヒメコ・ヒミコ:俗に卑弥呼とはもともとは中国側が使う卑語・蔑称)の冬の居城があり、更に安徳天皇西市陵墓参考地が日女尊の墓とされる(ただし超能力者の透視らしく、もちろん信用出来ない。参考)。

ちなみに、安徳天皇の陵墓は下関市赤間神宮横にある。明治期に正式に認定されたが、安徳天皇が葬られた場所という伝承があるため陵墓参考地に指定されている土地は当該土地を含め10か所以上あるという(wikiより)。

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安徳天皇西市陵墓参考地

② 神功皇后伝説
忌宮神社の言い伝えに、下関市豊田町の豊田湖のほとり、皇后が峰に三韓征伐からの凱旋報告に訪れ、その後、応神天皇を安産されたという「応神の森」があり、皇后の腹帯と伝えられるものを妊婦が身に付けて男の子の出産を願う風習があるとか。凱旋報告する相手は神功皇后より偉い人か?(八幡~神功皇后 穴門異聞~ 丘 達也、三省堂オンデマンド製本、2014)

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豊田湖

油谷湾・向津具半島は宗像海人族の縄張りで、渡来人を渡海させ、受け入れていた!

内陸の豊田町の華山は神代から霊峰で歴代天皇が祈願された。また、白村江の戦いの敗戦(663年)後の650~655年頃までに、すでに豊田郷があり、班田収授による条里制の田地があり、渡来人たちを受け入れていた(参考)。





③ 安徳天皇西市陵墓参考地
     (王居止御陵)
山口県下関市の山奥、豊田湖の畔にあり、遠くから見ると全体が円墳のように見えます。柵の内側には石の階段があり、外からは様子がうかがいしれません。この画像左の碑には「御陵墓傳説地」と記されています。

壇ノ浦で二位の尼に抱かれて入水した安徳天皇の陵墓と伝えられおり、昭和3年、宮内庁より陵墓参考地として指定されています。
毎年4月24日、安徳天皇を偲び「先帝祭」が執り行われるそうです。いつか神事の折に訪ねてみたいものです。

この西市陵墓参考地のほか、全国には安徳天皇の陵墓参考地として、岡益陵墓参考地<鳥取県鳥取市>・佐須陵墓参考地<長崎県対馬市>・越知陵墓参考地<高知県高岡郡越知町>があります(
参考)。

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案内図、左下の瓢箪が丸尾山。これを現在で見た限り前方後円墳である。この山の上に、今は崩れているが天皇の上円下方墳が乗っていたとか(参考)!

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御陵正面

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右手、後円部、豊田湖

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左手、前方部

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安徳天皇由来書

安徳天皇の阿弥陀寺陵