西北九州文化 | 日本の歴史と日本人のルーツ

日本の歴史と日本人のルーツ

日本の歴史と日本人のルーツを解明します。

基本的に山口県下関市を視座にして、正しい歴史を探求します。

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西北九州は元は在来系弥生人(縄文人)の地であった。従来、縄文時代は甕棺墓であったものが、弥生時代に入ると玄海灘文化の奴国、伊都国より西は甕棺墓は無くなり寧ろ箱式石棺が主になった様だ!

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すなわち、西北九州の弥生人は玄海灘・響灘の海の交流ネットワークを通じ、響灘文化との交流があった様だ!


参考

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西北九州タイプは在来系弥生人(縄文人)


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弥生時代の甕棺墓と石棺墓の分布


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弥生時代の甕棺墓(玄海灘文化)の拡大


化屋大島遺跡(けやおおしまいせき)、長崎県諫早市多良見化屋(参考)

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本遺跡は、大村湾奥部に位置する。喜々津川と江川に挟まれた標高22mほどの丘で、その名が示すようにかっては大村湾に浮かぶ島であった。遺跡は、標高7m前後の台地に立地している。1963年に畑の耕作中に箱式石棺墓が発見され、墓地であることが判明した。1973年には、宅地造成計画が起こり、多良見町教育委員会によって発掘調査が実施されている。調査の結果、弥生時代前期末から中期初頭にかけての箱式石棺墓7基が検出されている。石棺墓は、小形の棺身で、遺体を折り曲げた屈肢葬での埋葬が想定される。遺物は、石棺内外から鉢1点、小形壺2点の弥生土器が出土しており、副葬品と考えられる。箱式石棺墓は、西北九州において縄文時代晩期に支石墓の下部構造として成立し、古墳時代前期の石棺系石室まで連綿として構築された在地系の墓制である。大村湾沿岸部は、特に箱式石棺墓が卓越した地域であり、大村市富の原遺跡では石棺墓に共存する弥生時代後期前半期の甕棺墓に鉄剣や鉄戈が副葬され、弥生時代の拠点集落に伴う墓地と考えられている。一方、海に面した丘陵先端や本遺跡のように島にも石棺墓が営まれており、被葬者の生業の違い、身分の差などが推測できる。

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箱式石棺墓


根曽古墳群、対馬、古墳時代中期から終末期にわたる(5C~7C)5基の古墳群(参考)。

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雞知浦に張り出す半島の上に五世紀から六世紀に営まれた古墳群で、三基の前方後円墳と二期の円憤からなっています。弥生時代から古墳時代にかけて、浅茅湾沿岸の小高い岬にはいたるところ箱式石棺墓が設けられ、対馬において伝統的な墓制である箱式石棺と本古墳群における高塚古墳(盛土をもつ古墳)との関連が注目される。

また前方後円墳は首長墓(地域を治める豪族の墓)ですが、対馬では本古墳群の地に雞知浦を見下す丘陵にある出居塚古墳(鶴の山古墳)が知られている。

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当地区に首長墓が集中分布していることは、雞知浦付近が「日本書紀」にある「対馬県直」一族の本拠地として重要な位置にあったことを物語っている。


壱岐では、弥生時代の墓制として甕棺墓と箱式石棺墓の両方が混雑している。

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弥生時代の北部九州一帯では、2個の大きな土器の口を合わせたカプセルのような棺をつかって埋葬する「甕棺墓」と呼ばれる墓制がさかんに営まれる。原の辻遺跡でも、この甕棺墓がみつかっている。このほかにも、地面に穴を掘っただけの土壙墓や、平たい石を箱のように組み合わせた箱式石棺墓も見られる(参考)。

原の辻遺跡は、弥生時代前期後葉(紀元前三世紀後半頃)に集落が形成され、弥生時代中期前半(紀元前二世紀前半頃)に環濠をもつ大集落として成立する。中国・朝鮮半島、日本列島各地からもたらされた品々は、「イキ国」の国邑として対外交渉・交易の拠点であったことを示しているが、古墳時代前期の四世紀中頃に交易の基盤を失って解体・消滅する(参考)。


神ノ崎遺跡、五島列島(参考)、弥生・古墳の両時代に連続して営まれた全国的にも稀な石棺群で、古墳時代墳墓群としては五島列島唯一の遺跡。弥生時代の墓には大陸伝来の支石墓も含まれる。

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遺跡は笛吹港に突き出た全長約60m,幅4m~15mからなる小さな岬上に位置する。弥生時代中期から古墳時代後期にかけて約500年間継続して営まれた墓地で「板石積石墓(いたいしづみいしぼ)」「地下式板石積石棺墓」などと呼ばれる,有明海周辺に分布の中心を持った特殊な形態の石棺36基からなる。この遺跡のように,長期にわたって同じ形態の墳墓が営まれる例は県内外においても稀であるが,同時に五島列島の空白期であった5~6世紀の墳墓が初めて明らかにされた点でも重要な意義を持っている。




下関市の北浦海岸に川棚と小串があるが、東彼杵郡に川棚町と小串がある。地名が二ヶ所一致するだけでなく、西を北と言い張る北浦海岸に対し、東彼杵と西彼杵は南北方向に並び、さらに五島列島の福江島に対し、北浦海岸には下関市大字福江がある。何らかのつながりが有りそうだ!


21世紀の現代の方言を比較すると、対馬の方言は響灘文化との関連がある。