玄界灘沿岸から南の九州は邪馬臺国の領域外だった | 日本の歴史と日本人のルーツ

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三国志東夷伝倭人条(魏志倭人伝)では、邪馬臺国には鵲(カササギ)は居ないとある。さらに後漢書倭人伝では鵲(雞)は居ないとある。

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魏の国があった三国志の時代より前に後漢がある

ここでは魏より前の時代にあった後漢について記述した後漢書の倭人伝にある「邪馬臺国には鵲(雞)はいない」を検討する。ここで雞は鶏(ニワトリ)のことである。鵲(雞)の意味は、鵲は雞のことであると言うことか?そうでは無くて、鵲に加え雞と言うことか?どちらにしても、雞は居ないことを意味することは確かである。ただし後漢書は三国志より後に書かれたので、鵲(雞)は鵲とは雞のことと著者は意図していたと考えられるが、ここでは鵲と雞の両方を考慮する。


玄界灘以南の北部九州にある14の弥生遺跡から絹が出土しているが、本州・四国・南九州からの弥生遺跡からは絹が出ていない。弥生時代の銅剣・銅矛・銅鏡・鉄製武器及び絹の分布からみると、玄界灘以南の北部九州が多い。

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こさ布目順郎「絹と布の考古学」雄山閣

しかし、弥生時代から鶏肉食文化であった玄界灘以南の北部九州(玄界灘文化圏と名付ける、宗像以東の響灘文化圏を除く)は邪馬臺国の領域外であることが分かる。有明海沿岸は鵲の生息地であり、また獣肉食(鶏、ブタも?)でもあった筑後地域にある吉野ヶ里遺跡は完全に邪馬臺国の領域外であった。


参考








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鵲(カササギ)

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魏志倭人伝の原文・和訳対照表(参考)

カササギについてのwikiの記述は:
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『後漢書』倭人伝(引用)では

 

倭在韓東南大海中、依山島為居、凡百餘國。自武帝滅朝鮮、使驛通於漢者三十許國、國皆稱王、世世傳統。其大倭王居邪馬臺國。樂浪郡徼去其國萬二千里、去其西北界拘邪韓國七千餘里。其地大較在會稽東冶之東、與朱崖、儋耳相近、故其法俗多同。

 

倭は韓の東南、大海中の山島に拠って暮らす。およそ百余国。前漢の武帝が朝鮮を滅ぼしてより、漢に使訳(使者と通訳)を通じてくるのは三十国ほど。国では皆が王を称することが代々の伝統である。そこの大倭王は邪馬臺国に居する。楽浪郡の境界から、その国までは一万二千里。その西北界の拘邪韓国から七千余里。その地は凡そ会稽郡東冶の東に在り、(海南島の)朱崖や儋耳と相似しており、その法俗も多くが同じである。

 

土宜禾稻、麻紵、蠶桑、知織績為縑布。出白珠、青玉。其山有丹土。氣温煗、冬夏生菜茹。無牛馬虎豹羊鵲(雞)。其兵有矛、楯、木弓、竹矢或以骨為鏃。男子皆黥面文身、以其文左右大小別尊卑之差。

 

風土は粟、稲、紵麻(カラムシ)の栽培に適し、養蚕し、縑布を織ることを知っている。白珠、青玉を産出する。その山には丹砂がある。気候は温暖で、冬や夏も生野菜を食べる。牛、馬、虎、豹、羊、鵲(鶏)はいない。そこの兵器には矛、楯、木弓、竹矢、あるいは骨の鏃がある。男子は皆、黥面文身、その文様の左右大小の別で尊卑の差がある。

 

其男衣皆横幅結束相連。女人被髮屈紒、衣如單被、貫頭而著之;並以丹朱坋身、如中國之用粉也。有城柵屋室。父母兄弟異處、唯會同男女無別。飲食以手、而用籩豆。

 

そこの男の衣は皆、幅広で互いを結束して連ねる。婦人は髮を曲げて結び、衣は単被(ひとえ)のようにして頭を突き出して着る(貫頭衣)。並びに、丹砂の朱粉を体に塗る、中国での白粉の用法のようである。城柵、屋室あり。父母兄弟は居が異なるが、会同では男女の別はない。飲食は手を使い、御膳を用いる。

 

俗皆徒跣、以蹲踞為恭敬。人性嗜酒。多壽考、至百餘歳者甚眾。國多女子、大人皆有四五妻、其餘或兩或三。女人不淫不妒。又俗不盜竊、少爭訟。犯法者沒其妻子、重者滅其門族。其死停喪十餘日、家人哭泣、不進酒食、而等類就歌舞為樂。灼骨以卜、用決吉凶。行來度海、令一人不櫛沐、不食肉、不近婦人、名曰持衰。若在塗吉利、則雇以財物;如病疾遭害、以為持 衰不謹、便共殺之。

 

習俗は皆、裸足で歩き、蹲踞(そんきょ)で恭敬を示す。人々の性質は酒を嗜む。長寿が多く、百余歳に届く者も甚だ多勢いる。国に女子が多く、大人は皆、四~五人の妻がおり、その余は二~三人である。女人は淫ではなく嫉妬もしない。また、風俗は盜みをせず、争訟は少ない。法を犯した者は、その妻子を没収し、重罪はその家系一門を誅滅する。その喪は十余日で停止する。家人は哭泣し、酒食を摂らず、而して等類は歌舞を楽しむ。灼骨で卜占し、吉凶を決するのに用いる。海を渡って行き来するときは、一人に櫛や沐浴を使わせず、肉食をさせず、婦人を近づかせない、名づけて持衰という。もし道に在って(海運で)吉利を得れば財物を以て支払う。もし病疾の災害に遭遇すれば、持衰が慎まなかったことして、すなわち共にこれを殺す。

 

建武中元二年、倭奴國奉貢朝賀。使人自稱大夫。倭國之極南界也。光武賜以印綬。安帝永初元年、倭國王帥升等獻生口百六十人、願請見。

 

建武中元二年(57年)、倭の奴国が謹んで貢献して朝賀した。使人は大夫を自称する。倭国の極南界なり。光武帝は印綬を賜る。安帝の永初元年(107年)、倭国王が帥升らに奴隷百六十人を献上させ、朝見(天子に拝謁する)を請い願う。

 

桓霊間倭國大亂、更相攻伐、暦年無主。有一女子名曰卑彌呼。年長不嫁、事神鬼道、能以妖惑衆。於是共立為王。侍婢千人、少有見者。唯有男子一人給飲食、傳辭語。居處宮室樓觀城柵、皆持兵守衛。法俗嚴峻。

 

桓帝と霊帝の間(146189年)、倭国は大乱、互いに攻伐しており、暦年に亘って君主がいなかった。一人の女子がいて、名を卑彌呼という。年増だが嫁がず、神鬼道に仕え、よく妖術を以て大衆を惑わす。ここにおいて(卑彌呼を)王に共立した。侍婢は千人、会える者は少ない。ただ飲食を給仕し、言葉を伝える一人の男子がいる。暮らしている宮殿、楼観、城柵、いずれも武器を持って守衛する。法俗は峻厳である。

 

自女王國東度海千餘里至拘奴國。雖皆倭種、而不屬女王。自女王國南四千餘里至朱儒國、人長三四尺。自朱儒東南行船一年、至裸國、黒齒國、使驛所傳、極於此矣。

 

女王国より東に海を渡ること千余里で拘奴国に至る。いずれも倭種とはいえども女王には属していない。女王国より南に四千余里で朱儒国に至る。そこの人の身長は三~四尺。朱儒より東南に航行すること一年で裸国と黒歯国に至る。使訳の伝える所はこれに尽きる。

 

會稽海外有東鯷人、分為二十餘國。又有夷洲及澶洲。傳言秦始皇遣方士徐福將童男女數千人入海、求蓬萊神仙不得、徐福畏誅不敢還、遂止此洲、世世相承、有數萬家。人民時至會稽市。會稽東冶縣人有入海行遭風、流移至澶洲者。所在絶遠、不可往來。

 

会稽の海の外に東鯷人があり、二十余国に分かれている。また、夷洲および澶洲がある。伝承によると、秦の始皇帝が方士の徐福を遣わし、数千人の少年少女を連れて海に入った。蓬萊山の神仙を探し求めたが、出会えず、徐福は誅罰を畏れて敢えて帰らず、遂にこの島に留まった。代々に相伝し、数万家を有した。人民は時に会稽に至り交易する。会稽東冶県の人が海に入って航行し風に遭い、漂流して澶洲に至る者がいる。絶海の遠地に在り、往来すべきではない。



後漢書は三国志より前の時代の倭国を記述しているが、書の成立は三国志より後で、三国志を参考、修正していると思われる。wikiによると、
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吉野ヶ里遺跡から獣骨(ブタ?など)が出土し、蛋白質を主に魚介類から摂取する遺跡ではなかった。