やはり宗像三女神は天照大神であった | 日本の歴史と日本人のルーツ

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やはり、宗像三女神は三柱で一体の天照大神の荒御魂でした。神饌は共に山幸の米の餅と海幸の干魚を供える同一形式の質素なものであった。


参考

① 伊勢神宮と宗像大社の神饌が同一

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宗像大社様では、十一月三日に、秋季大祭を締め括るお祭として、辺津宮本殿後背の丘陵にある高宮拝所で、高宮神奈備祭が祭行されます。

同社には、中世に行なわれていた神事詳細を記録した書、「應安神事次第」が伝わっていますが、高宮神奈備祭は、同書所収の神事を復活したものです。「八女神事」ともされ、天若御子と仕える八乙女についての呪歌が、舞とともに朗誦されます。

その神饌には必ず、神酒と「あおつみの餅五枚」と「應安神事次第」にはあります。あおつみの餅の「あお」とは白色を言います。全国数カ所の神社に白馬を神に献ずる祭礼が伝わっていますが、これを「白馬の節会」と書いて「あおうまのせちえ」と訓ませます。古代の「あお」は、現代の白色を指して言ったのです。

伊勢神宮様(伊勢神宮様は正式には「神宮」とのみ申し上げます。)の神饌に、長辺三十センチほどの扁平な楕円形に整えられ、やはり五枚重ねた、画像にあるような餅があります。画像は神宮様への毎日の御日供祭での神饌のお膳なのです。

神宮祭祀は、宗像大社沖津宮での古代祭祀を伝えるものではないか、とする研究が延暦二十三年(八〇四)の成立とされる皇大神宮儀式帳の解読によってあります。

画像の、神宮御日供祭神饌にみる五枚重ねの餅は、宗像三女神に供えられていた「あおつみの餅五枚」が今に遺る形なのかもしれません。




③ 神功皇后が三韓征伐に青海原(響灘・玄海灘)を越えて進軍する前に、神懸かりされた時に天照大神の荒御魂が現れ、撞賢木厳之御魂天疎向津媛命と名乗られた。




⑤ 邪馬壹国九州説は誤りで、卑弥呼は大和朝廷の初代女王すなわち天照大神であった。