沖ノ島は天照大神の居られる高天原か! | 日本の歴史と日本人のルーツ

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宗像三女神は天照大神と須佐之男命の誓約(うけひ)で、須佐之男命の御子神として、高天原で誕生した。お名前は“田心姫神”(たごりひめのかみ)、 “湍津姫神”(たぎつひめのかみ)、“市杵島姫神”(いちきしまひめのかみ)です。天照大神の五柱の男子の神は天孫として各地へ天降っていかれた(参考)。

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長女の“田心姫神”は玄界灘の孤島、“沖ノ島・沖津宮”に、次女の、“湍津姫神”は“大島・中津宮”に、
そして末女の“市杵島姫神”は宗像大社境内の“辺津宮”にそれぞれ祀られています。

沖ノ島は、朝鮮半島からの渡来ルート(朝鮮半島と宗像の直通海路を海北中道または天の浮橋とよばれている)の中継地点として天の浮島とも言え、晴れた日には、西に対馬、西南に壱岐、南に福岡、東に山口県の見島をはるかに望むことができる。

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須佐之男命が天昇って、高天原で天照大神と須佐之男命が御子神をお産になること、
乱暴狼藉を振るって天照大神が天の岩戸にお隠れにななったりの事件について、渡海の中継地点たる沖ノ島が天照大神がお住まいになる高天原なら容易に理解出来る。

卑弥呼の時代に起こった皆既日食(西暦247年3月24日と西暦248年9月5日、参考)は弥生時代末から古墳時代初期にあたり、記紀に記述された神代「現実の渡来人の渡来(4世紀後半以降)と当時の伝承、さらに架空の物語の組合せ」とは一線を画す必要があるが、この皆既日食が皆既日食として完璧に見える地域は日本列島では沖ノ島周辺に限られることは注目に値する。

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247年9月4日、白く太い実線が皆既日食帯、日没直前に皆既日食が起こり、そのまま海に入る。

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248年9月4日、白く太い実線が皆既日食帯、水平線から日出直後に皆既日食が元に戻り始める。


参考

1  沖ノ島、宗像大社、沖津宮



博多湾内で天照大神や須佐之男命の他、多くの神々がお生まれになった。沖ノ島に天照大神がお住まいなら、容易に天昇り、天降りが出来るし、出雲や他の高天原とも容易に交流出来る。


3  出土した土器から縄文時代前期には漁民らが漁業の基地として使用していたらしい。その範囲は、北九州、瀬戸内海、山口県にまで広がっている(wikiより)。

すなわち、海人族の宗像氏、住吉氏、安曇氏(秦氏)に皆既日食の目撃の伝承があり、記紀に盛り込まれても不思議ではない。また、当時の響灘、玄界灘沿岸の漁民にとっては、天の岩戸隠れの物語から皆既日食や沖ノ島を連想することは容易であったと思われる。


4  沖ノ島での祭祀の初期の形態は太陽信仰であったとか!まさに天照大神に対する信仰であった(参考)。

1.岩上祭祀(がんじょうさいし)、4世紀後半から5世紀(古墳時代前期から中期)

宗像から60km沖合いにある沖ノ島で、大和政権による祭祀は岩の上で行われました。大きな磐座は神が降臨し、神が宿ると考えられ、岩の上に小石を敷いて奉献品を置き、祈りました。奉献品は舶載鏡、国産鏡、石釧(いしくしろ)、武器、工具などで、古墳時代前期から中期の古墳の副葬品と似ています。祭祀者は東方に向かって礼拝していたようですから太陽信仰だと考えられます。

2.岩陰祭祀(いわかげさいし)、5世紀後半から7世紀(古墳時代中期から飛鳥時代)

祭祀は岩陰で行われ、岩陰になっている土の上に奉献品を並べました。奉献品は銅鏡、装身具、武器、武具、工具、須恵器・土師器などで、古墳時代中期から後期の古墳の副葬品と似ています。中には、新羅製の金の指輪、馬具、鉄斧、ペルシャ製のカットグラスなど交易で得た品もあります。奉献品が豪華になってきました。

3.半岩陰・半露天祭祀(はんいわかげ・はんろてんさいし)、7世紀後半から8世紀前半(飛鳥時代から奈良時代)

祭祀場が岩陰とその前の露天にまで広がっていきます。奉献品は玉類、武器、工具、土器、金属性雛形祭祀品などで、岩陰とその前の露天に置かれました。舶載品は新羅系から中国系に変わります。これは660年に新羅が百済を滅ぼしたことと関係があるのでしょう。

古墳時代が終わったので、奉献品は宮廷祭祀の祭祀品・神宝などと共通してきます。

4.露天祭祀(ろてんさいし)、8世紀から10世紀初期(奈良時代中期から平安時代初期)

これまでの祭祀はその都度場所を変えていましたが、ここからは同じ露天の場所に大型の祭壇を設けました。奉献品は国産品で、土器、人形、馬形、舟形、銭、八稜鏡などがあります。

遣唐使は菅原道真の進言で894年に廃止されますので、国家の祭祀は終焉し、胸形氏(宗像氏、宗形氏)の祭祀に替わります。


5  大島の天真名井について

中津宮のある大島に天真名井がある。日本書記では天真名井と言う霊泉が記載されており、『天真名井』で、天照大神と須佐之男命の誓約(うけい)により、天照大神が須佐之男命の剣、十拳剣(とつかのつるぎ)をとって、三っつに割り、『天真名井』の聖水を口に含み、勢い良く吹きかけ、その吐噴霧から3柱の女神が化生いたしました(参考)。また、古事記では天の安河とあるが、天真名井から流れ出る天の川のことで、七夕の神話に繋がり、やはり大島で七夕神事が執り行われている(参考)。

たとえ儀式はこの大島で執り行れたとしても、沖津宮のある沖ノ島が高天原の中心であろう!




7  三女神の降臨地(参考)

日本書紀と古事記、その他で記述は異なるが、現在の宗像大社と見て問題無い。

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胸形は宗像、葦原中国宇佐嶋は筑紫洲と同一であり(参考)、さらに海北道中は宗像と朝鮮半島を結ぶ海路であるから、現在の宗像大社の他には候補は無いことが分かる。


8  高天原は高海原、天照大神は海照大神

天と海は共にアマ、アメと読み、神代には同じ意味であり(参考)、沖ノ島の灯台(目印)とか守神と考えれば納得出来る(参考)。