古代日本(倭国)の2世紀後半、倭国大乱があった。この時期は後漢が滅びて中国全体の人口が3世紀後半までに、4000万人が消えて無くなった時期である。また、7世紀初頭にも同程度の消滅があったようだ。
当時の中国の人口消滅とは、北方の匈奴の干ばつによる飢饉などが引金となり、騒乱による虐殺、ボートピープルになっての難民流失が考えられる。玉突き式に倭国に流入した難民(羌族と秦氏?)に居住地を確保するために、在来の渡来系弥生人(呉系弥生人)と邪馬臺国(斉系弥生人と難民)の間で摩擦がおきたのであろう!
この難民達は朝鮮半島などにも国を立て、4世紀半ばから7世紀末あたりまで、対馬海峡を超えて山陰海岸に徐々に渡来してくる。
この間、倭国の人口が増えて紀元前3世紀から7世紀の間に59万人から451万人と約400万人の増加であった。人口の自然増と渡来人人口増の割合について各種研究があり、150万人以上の規模の渡来が考えられている。また、中国大陸の西方にも難民として押し出され、ゲルマン民族の大移動が起こっている。
7世紀いっぱいまで続く難民受け入れ、すなわち、百済、高句麗からの渡来人を受け入れることまで続くことになる。
逃れ損ねた民はどおなるのだろうか?餓死、虐殺の運命にあったのであろう。現代の故地の住民に子孫が残っていない場合、虐殺の可能性が大きい。巨大な穴にまとめて数万人の民を放り込んで生き埋めにするのが手っ取り早い!
参考
① 西暦157年から西暦280年の間に約5600万人から約1600万人と4000万人減少した。
④ 日本の人口推移(参考)
紀元前200年に59万人が紀元700年に451万人となり、900年間で392万人ほど増加している。