日本人の人口増加について | 日本の歴史と日本人のルーツ

日本の歴史と日本人のルーツ

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日本の縄文時代から弥生時代、古墳時代、、と時代が下るほど人口が爆発的に増加する理由を説明する。

① 埴原和郎の「100万人規模の大量の渡来人によるもの」
② 九州大学大学院の中橋孝博教授と九州歯科大学の飯塚勝助教授らが提唱する「少数の渡来人による水稲耕作化と長寿命化によるもの」
の2つの説がある。考古学では「少数渡来」、人類学では「大量渡来」というように、現在もなお論争が続いているそうである。

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縄文人が減少する時期に、渡来系弥生人が渡来開始後、不連続的に人口増加している。人口軸は常用対数(1万人から1億人)、横軸BPは現在から過去に遡る年数、ADは西暦。弥生時代の始まりと古墳時代中期に顕著な人口増加が見られ、特に古墳時代中期の増加率は大きい。縄文時代終末期の人口減少を稲作だけで急な増加に転じさせるには、渡来系弥生人の沢山の渡来が必要である。西暦7世紀付近に人口増加が停滞し、その後の増加率も下がった時期がある。(参考)

当研究は大量渡来を支持する。理由は棲み分けで説明する。縄文人と渡来系弥生人の地域的棲み分け、古墳時代中期以降の秦氏などの渡来人は先端技術による役割分担による棲み分けがあり、紛争を起こす必要がなく同化が進み、紛争の考古学的資料が少ないのであろう。今でも、同じ地域でも海岸、水田・畑地、山岳地、都市で文化のやや異なる人々が棲み分けている。また、天孫(渡来人、秦氏)は日本全国に神社、仏閣を建立して、天つ神のみならず国つ神(弥生人や縄文人)も祀って共存したが、本当の信仰対象の嘆きの壁は現在まで秘密であった。

最古の日本に関する資料である魏志倭人伝以降、外国からみた日本人の認識に変化が無いのは、海人族安曇氏などが活躍して、弥生人や秦氏などを徐々に渡来させたため、気がつかなかったのである。この為、朝鮮半島南部の任那に一時、居住した秦氏は倭人と見られていた。



縄文人の少ない地域に渡来系弥生人が棲み分け、共存した。古墳時代中期以降渡来した秦氏は弥生人と同じ地域に重なるように定住したが、最先端技術で棲み分けた。


①b 古墳時代中期以降、D2系YAP遺伝子を持つ縄文人と同じ遺伝子を持つ渡来人秦氏は中東からやって来た


①d 技術や文化の渡来に人が同伴する


外国から見た日本人観に変化が無いこと、水稲の稲作で人口増加率が大きくなったこと、縄文人がD2系YAP遺伝子を持ち、現在も同様に均一に分布していることを根拠にしている。少数の渡来系弥生人が縄文人に水田開墾、水稲栽培のノウハウを伝授したこと、又は縄文人が稲作ノウハウを見よう見まねで獲得したことを説明の根幹としている。

②a しかし、一般的には江戸時代まで生存競争に大切な情報を門外に教えることは無く、門外不出としたはずである。例えば土師氏の土器製作、鉱山技術、土木技術などを簡単に他の氏族に教えたであろうか?

②b 例え好意的に解釈して、渡来系弥生人がお人好しで簡単に技術指導をする少数渡来説を認めても、人口増加率を極端に大きく設定している。弥生時代、水稲の導入は生存率の向上につながるが、水田の開墾などがあり、直ちに人口増加に反映しない。さらに、古墳時代中期以降の人口増加に寄与する生存率や出生率の向上についても、須恵器、馬、鉱山技術、土木技術などの先端技術を持った渡来人秦氏の流入が、元から居る縄文人や渡来系弥生人の農業生産性をすぐさま向上させ、直ちに元から居た彼ら地元民の大幅な人口増加に寄与することは考え辛い。

D2系YAPは縄文人が持つとし、弥生人の渡来から古墳時代中期以降までの渡来人については中国大陸・朝鮮半島からとしている。すなわち、弥生人がO2b系Y遺伝子、古墳時代中期以降の渡来人の秦氏が再びD2系YAP遺伝子を持っているとは考えていない。

②d 山口県の地元は土井ヶ浜遺跡の人骨に代表される渡来系弥生人の範囲でありヨン様顏が主流のはずであるが、縄文人的な顏ももちろん極少数であるが、現在の山口県には大陸や半島とは違うタイプの新しい顔が多くを占めることを指摘する。

②e さらに、西暦7世紀付近に人口増加の停滞と、続く増加率の低下の説明が少数渡来派では説明できない。すなわち、水田開墾の限界による収容人口の単なる飽和なら漸近的に飽和するはずが、不連続的に停滞した。この時期に大規模渡来を停止したのであろう。

②f 米の遺伝子は縄文時代に日本にあったが栗の木の栽培と同じレベルだった。従って人口低下を防げなかった。


②h 縄文人の弥生稲作移行説の研究者の誤認識(原著) 、すなわち、ほとんどの弥生系の水田は粗放農業で縄文時代の延長であるとの指摘について、反論する。


注意

考古学者の新聞発表も2つの説の何方に属すがを踏まえて読む必要がある。すなわち、少数渡来派の考古学者が言う伝来は情報のみで、人の渡来は考えていない事に注意が要る。

「朝鮮半島南部の任那に前方後円墳・形象埴輪があり、日本から伝わった。」と言う場合、任那の技術者が日本まで習いに行ったのか?日本から技術指導者が行ったのか?実際の築造はどちらの人夫がやったのか?

答えは、実際は任那にいた秦氏が日本に渡来して築造した前方後円墳や形象埴輪を遅れて任那にも製作したと考えた方が自然である。


中国の人口推移

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西暦0年から現在まで(参考)

中国において、3、4世紀(五胡十六国時代)と7世紀辺り(隋の滅亡)に数千万人に及ぶ急激な人口低下がある。正に日本への大規模渡来開始直前時期と渡来停止時期に相当する(参考、後段)。初めては受け入れたが、二回目は阻止した様に受け止められる。朝鮮半島もこの中国の騒乱に巻き込まれる様に国の興亡があった(参考1参考2)。


ユーラシア大陸西側の状況

375年、フン族に追われた西ゴート族が移動すると、西ゴート族に追われた部族が移動しを開始し、玉突きのようなゲルマン民族の大移動が起こった。これらの部族は各地に王国を建設した(ゲルマン民族大移動)。


弥生時代初期と古墳時代初期に結核の流行があったようで、例え少数であっても免疫のある渡来人の侵入が免疫の無い在来人を死なせてしまう可能性がある(古代の渡来人と伝染病)。


縄文人が進化しても渡来系弥生人と同じ顔になれないライフスタイルで変化するものと変化しないものは、現在の子供たちを見ても理解出来る。沖縄人やアイヌ人が西洋風なライフスタイルで生活しても韓国のヨン様にはなれない。

秦氏は血液型Aで、男性遺伝子D2を持って日本に渡来し、古墳時代を作った。