出雲の秘密 | 日本の歴史と日本人のルーツ

日本の歴史と日本人のルーツ

日本の歴史と日本人のルーツを解明します。

基本的に山口県下関市を視座にして、正しい歴史を探求します。

ご質問などはコメント欄にお書きください。

学術研究の立場にあります。具体的なご質問、ご指摘をお願いいたします。

出雲辺りのほとんどの男性はY-DNA遺伝子D2を持ち、O系統(呉系、越系、燕系などの渡来系弥生人)はほぼ居ないようだ!

すなわち、このD2は在来系弥生人すなわち縄文人由来の他に、響灘から山陰沿岸に渡来した斉系弥生人の由来がD2があり、ここ出雲で合流したと考えると納得できる(参考)。つまり、原理的には男性は全てD2だけを持った純粋民族が出来上がった!だから、同族意識をもつ在来の縄文人には被支配意識が無く、堂々とズーズー弁を貫いたのであろう(追加考察)。

出雲付近を含め響灘から山陰沿岸は、古墳時代以降、山を耕し、海を埋め立てるなどしたが、元々豊かな平野が無くO系統の稲作弥生人は通り過ぎ、大和盆地や北陸方面に入植したのが理由である(参考)

その結果、O系統の言語の影響を受けずに、東北あたりの人たちと同じ様なズーズー弁が維持された!しかし、血液型の観点では西欧と同じくA型が卓越して、東北地方とは遠く西日本の中心となっている。渡来系のD2の人数が多かったことを示唆している(参考)

さらに面白いことだか、古事記、日本書紀の中で出雲が詳しく、さらに出雲国風土記が作られたのも、純粋なD2民族の国として縄文時代からの連綿とした記憶を保持しているからであろう!紀元2600年どころでは無く、もっと長い歴史です!

こう考えると、大国主命以下の出雲の地元の国つ神たちも、渡来して来た天つ神たちも同族であった!だから、国譲りもスンナリと執行された!大国主命は天つ神に対し事代主命に相談してくれと言い、本人は何も考えていなかった!

だから須佐之男命は出雲の伊邪那美命に会いに行きたがったり、伊邪那美命の墓は出雲近くの比婆山にある。大和に侵入した神武天皇の子孫達が祀る三輪山の大物主命も大国主命と同一神で、祀る民も祀られる神も同族であった。

だから、神無月に全国の神々が出雲に集まる理由がよく分かる。明治初期に、日本の最高神を伊勢の天照大神にするか、出雲の大国主命にするか議論があったとか!どちらにしても、大和民族としては困らなかった!皇室の一員が出雲大社にお嫁入りされたが、実は血族結婚であった!

ちなみに、古墳時代中期に朝鮮半島から渡来した秦氏(D2)は出雲には上陸せず、響灘から島根県西部(石見)あたりに上陸した(参考)。


参考

① 斎藤成也氏によると、出雲の人は朝鮮半島の人に近く無く、アイヌ、縄文人と同じとの意味を発言して居られる(参考):

斎藤成也氏(ゲノム進化学・国立遺伝学研究所集団遺伝学研究部門教授) 

――最後に、これから取り組まれる予定の研究テーマをお聞かせいただけますか? 

斎藤氏:一つには、いろいろな文化を創り出した人間の知性や自意識といった もののDNA的な基盤を知りたい。また、骨などの形を決める遺伝子は、まだよくわかっていません。 こうした部分は、発生学者が研究していますが、別の方法でできないかと考え、 体中のCTスキャンを取り、それをDNAの研究と組み合わせるといったことを やろうとしています。 

もう一つは、今度新しく研究会を立ち上げる予定の、「DNAから神話へ」 というテーマ。 

私は、子どもの頃から「古事記」が大好きなのですが、最近、出雲神話の舞台 である出雲地方の人のDNAを調査したら、驚くべきことがわかりました。 
日本海側だし西日本側は、おそらく朝鮮半島の人々と近くなるだろうと 予想していたら、そうではなく全く逆の結果だった。 

それで、日本国内の多様性をくわしく調べれば、これまで指摘されなかった 日本列島人の新しい移住のパターンが見つかるのではないかと考えています。 
ひょっとすると、戦後、柳田國男が提唱した「海上の道(南方からの渡来)」が、 彼が指摘したよりずっと古い時代になりますが、本当にあったということに なるようです。 

上の文章のソースは不明ですが、以下の通り、斎藤成也氏の発言の様です。

{37E43A3F-0426-43AE-BD9F-C6F3FE695563:01}


② 出雲の地は平野が少なく、その平地も砂地で稲作に適していなかった!広い土地て水田稲作を目的としたO2b呉系弥生人やO2a越系弥生人などO2系統は通り過ぎた後に、D2の斉系弥生人や秦氏が入植した。

{E9EBE762-01A7-4F8A-B171-57B5960DF823:01}
現在の出雲平野の2000年前は面積が少なく、稲作には適していなかった様だ!

{9A2A77B0-9ADD-480E-A935-E99A69017A27:01}
米子市あたりも昔は海であった。弓ヶ浜は砂が堆積した土地である。西部の斐伊川あたりも上流からの砂が堆積しており、出雲大社にお参りすると分かるが、境内は砂地に松が生えている。


男性遺伝子Y-DNA遺伝子D2の知識の無かっ頃の著書の考察(参考)。他地域からの干渉が無かった歴史の考察は正しい。


④ まず、島根県は東部(雲伯方言)と西部(石見弁)で全く言葉が違う。分かりやすく言えば、東北弁と広島弁くらい違う。アクセントも完全に違う。これは県外人には意外に知られていない(参考)。

石見弁は山口県、北九州市、大分県北部の方言に近い!縄文人(D2)、呉系弥生人(O2b)が元々少なく、後から渡来した斉系弥生人と秦氏(D2)とによる新しい日本語と考えられる。その他の西日本は、若干の縄文人(D2)と、大勢で渡来してきた弥生人(D2系とO2系、その他)の割合で方言が決まったのであろう。

古代日本語は相当古そうである。縄文人、各系統の渡来系弥生人の言葉は方言程度の違いしかない様で、Y-DNA遺伝子D/Eの分化はアフリカ脱出直後であり、この当時に超古代日本語が出来たとすると、春秋戦国時代以前の中国の言語は古代日本語だった可能性を空想できる。

ただし、現在の近畿は多民族の坩堝で、考察の範囲外である。