608年、小野妹子は隋使・裴世清を伴い、帰国した。その航海中、竹斯国を過ぎて東に秦王国があり、中国語を喋ると説明した。
すなわち、当時のヤマト政権のある関西地域は渡来人秦氏(D2)がまだ少なく、天皇以下の支配者の斉系弥生人(D2)と地元民の越系弥生人(O2a)の言葉が支配的であった。同じD2でも、秦氏と斉人では言葉が違っていたことの明確な証言を得た!
現代の出雲弁が東北弁に近いこと(参考)、秦王国と考えられる山口県あたりはチョルル君がマスコットになる位に特徴的な方言であることを考慮すると、当時の天皇はズーズー弁で、渡来したての秦氏は山口弁のチョルを喋っていたのであろう!
さらに分かることは、出雲には秦氏は上陸せず、島根県西部の石見以西に上陸した!ちなみに、西端は現代の方言分布から宗像あたりと踏んでいる。
隋の使者に秦氏は華夏(中国)語を喋ると説明したが、倭国の案内者は外交官の小野妹子であり秦氏は朝鮮半島から渡来したことはわかっており、朝鮮半島は単なる経由地であったことが理解できる。
下関は弥生時代後期、東鯷国(イツツヒコ王国、斉系弥生人の国、D2系)であり、この国に秦氏(D2)が渡来したことになる。縄文人がD2とすると、下関あたり定住した農家は縄文時代から連綿と男性遺伝子Y-DNA遺伝子D2を維持したことになる。
参考
① 隋書俀國伝の秦王国に関する部分の抜粋(参考)
明年、上遣文林郎裴清使於倭國。度百濟、行至竹島、南望○羅國、經都斯麻國、迥在大海中。又東至一支國、又至竹斯國、又東至秦王國。其人同於華夏、以為夷洲、疑不能明也。又經十餘國、達於海岸。自竹斯國以東、皆附庸於倭。
翌年、上(天子)は文林郎の裴世清を使者として倭国に派遣した。百済を渡り、竹島に行き着き、南に○羅国を望み、都斯麻国を経て、遙か大海中に在り。また東に一支国に至り、また竹斯国に至り、また東に秦王国に至る。そこの人は華夏(中華)と同じ、以て夷洲となす。疑わしいが解明は不能である。また十余国を経て、海岸に達した。竹斯国より以東は、いずれも倭に附庸している。
② 島根県は東部(雲伯方言)と西部(石見弁)で全く言葉が違う。分かりやすく言えば、東北弁と広島弁くらい違う。アクセントも完全に違う。これは県外人には意外に知られていない(参考)。