以前、下関の稗田地蔵堂遺跡(川中地区、弥生時代中期後半)から出土した蓋弓帽について紹介した。イツツヒコ王の印か?と思いを巡らせたが、検討をさらに加えた!
楽浪郡のあった前漢時代当時、下関あたりの響灘文化圏はお魚大好きの東鯷人の国であり、前漢には朝貢していた!すなわち、もっとも近い楽浪郡に出向いていた!その漢に当時、朝貢していたのは倭国(九州)と東鯷国(響灘から出雲)、越系弥生人(銅鐸文化圏、奈良県)であった。
すなわち、下関の蓋弓帽の持ち主は東鯷国の代表であり、日本書紀に書かれたイツツヒコの先祖であった。
参考
① 下関の稗田地蔵堂遺跡(川中地区、弥生時代中期後半)から出土した蓋弓帽について(参考)。
稗田地蔵堂遺跡では箱式石棺に前漢鏡 1面と金銅製の蓋弓帽 2点が副葬されてました。前漢鏡も蓋弓帽も現在の朝鮮民主主義人民共和国の平壌付近と推定されている楽浪郡からもたらされたものです。
楽浪郡というのは、前漢(紀元前202~紀元8年)の武帝が朝鮮半島を直接支配するため紀元前108年に設置した四郡のうちの一つです。
日本国内で、楽浪郡地域由来の物が出土した場所は10か所ぐらいある。壱岐・対馬、吉野ヶ里、糸島、出雲、奈良県などから、楽浪郡地域の土器、楽浪郡地域の剣、楽浪郡地域の鏡が出土した。
しかし、楽浪郡のトップクラスの馬車に付けた蓋弓帽はここ稗田地蔵堂遺跡のみである。
② 『漢書』地理志の記述
(A) 楽浪海中、倭国有り。分れて百余国を為す。歳時を以て来り献見すと云う。 (『漢書』地理志、燕地)
(B) 会稽海外、東鯷人有り。分れて二十余国を為す。歳時を以て来り献見すと云う。 (『漢書』地理志、呉地)
③ 後漢書での記述(参考)
⑤ 弥生時代後期の響灘から出雲あたりまでの国を初期秦王国と定義していた(参考)が、この国こそ斉系弥生人(D2)の国、イツツヒコ王国(東鯷国)であり、また出雲以東が大和に進出して邪馬臺国になった。ここに再度、4世紀後半以来、朝鮮半島から秦氏が渡来して秦王国となった。
⑥ 蓋弓帽の出土地