饒速日命から物部氏と海部氏(海部氏系図、海人族安曇氏、住吉氏、宗像氏(C1))(参考)
物部氏から呉系弥生人(O2b)、越系弥生人(O2a)、燕系弥生人(O2b)(参考)
邇邇芸命から秦氏(D2)、斉系弥生人(D2)(参考)
長脛彦は縄文人(D2)(参考)
参考
⑨ 物部氏についてのブログを引用した。
物部氏(もののべうじ)とは、古代、朝廷にあった古い氏族の名前。祖神は饒速日命(にぎはやひのみこと)。
物部氏の姓(かばね)は連(むらじ)で、、軍事・警察のことをつかさどる物部の伴造(とものみやつこ)。造(みやつこ),首(おびと)などの姓をもつ配下を従え、、〈物部八十(やそ)氏〉と呼ばれた。
朝廷での軍事てきなこと、刑罰の執行などにあたった人々のことです。今で言うと、、お巡りさんとか刑事さんでしょうか、。武士は、、最初は天皇・貴族の警護や紛争の鎮圧を任とする、、朝廷の役職の一つでしたが、旧来の支配権力である朝廷、国司、荘園主、国民に対して、、全国的な規模で軍事権・警察権を担う、、国家的な公権力にまで発展したようです。
もう一つの物部氏、、出雲族の祭祀を司どる方もあるのですが、、、天皇家の代表、天孫=邇邇芸命(ににぎのみこと)より先に天下った饒速日命(物部氏の祖神)とが、「同じ璽符(じふ)、天子の証として、天羽羽矢(あまのははや)と歩靫(かちゆき)」を持っていた。ということは、物部氏と天皇家とは同じユダヤの流れを持つ者同士なのかも??
天孫の祖、天照大神を天神(天津神)とし、須佐之男命(すさのおのみこと)の子孫である大物主神(おおものぬしのかみ)たちは地祇(国津神)として祭った。大物主神は、、、邇邇芸命の使者、建御雷神(たけみかづち)に、、私の住む所として、天の御子(邇邇芸命)が住むのと同じくらいに大きな宮殿を建ててほしい。(そのようにしてくれたら)私の百八十神(ももやそがみ)たちは、事代主神(ことしろぬし)に従って天津神に背かないだろう。といって、、隠れた。(八十(やそ)は大勢の意、百八十は、とても数が多いことを、さらに強調して表す数。)自身の宮殿建設(つまりは自身の名と血筋、系譜などを天孫、天津神と同様に国津神のものも、残すことを含む)と引き換えに国を譲ったということ、、。隠れるとは、通常、天皇が崩御することを意味しているけれど、、ここの部分での隠れた、は、
詩篇
61:5 あなたの幕屋にわたしはとこしえに宿り/あなたの翼を避けどころとして隠れます。
避けどころにする、軍門に下る、傘下に入るという意味なのでしょうか。それだから自分(国津神)の支配下にあった葦原の中津国を国津神を後継者とし支配権を譲る、、という意味で、。でも、正当な後継者である自分の子ら(事代主神と長髄彦(ながすねひこ))に無断では決めれないので、大物主神は、最初、自分の子らに聞いてください、と邇邇芸命の使者にいったのですよね、。
長髄彦は天孫である饒速日命に忠誠を尽くそうとした、、饒速日命は邇邇芸命の兄神、、そして自分も、自分の妹と饒速日命が婚姻しているので、、邇邇芸命の義理兄となる、。長髄彦は弟である者が、兄である自分たちを差し置いて支配するのは納得できなかったのでしょう、。
邇邇芸命の兄神である饒速日命が、、天神と人は違うのだ と長髄彦を諌め諭していますから、。古代イスラエルでは、、たとえ、弟であろうとも神様から祝福を受けた者が、家長となった。基本的には長子権と長子による相続であるけれど、。長髄彦は饒速日命の言うことを聞かず、ごね続けたので、饒速日命は痺れを切らして、いつまでもごねている長髄彦を殺して弟神の邇邇芸命に帰順した、。
ちなみに各地にある天照大神を祀る神社の神は女神ではなく男神になっていて、、正式名が、天照国照彦 天火明 櫛甕玉 饒速日命。女神である天照大神以前の、、男神(彦)としての天照神は、、饒速日命と同じ名ニギハヤヒのミコトという名前を持っていた、。もともとは、饒速日命も天照神と同じように天孫で天津神、でも、地祇(国津神)である長髄彦の妹と婚姻したことで、、国津神、人側の立場に落とされたとみなし、人側としての因子、自分の義理の兄を滅ぼしてまで天津神に帰順したことで天津神(天照大神)と同格とされたのだろうか。
単純に、、大和地方を治めていた先住縄文人である長髄彦の一族と、天磐(あめのいわ)船に乗り大和地方に天降りった(渡来してきた)饒速日命とが婚姻により混血する。あとから饒速日命と同族である渡来系弥生人、邇邇芸命らが来て、、この二派が出会って、印を見せ合って同族と認めあい、混血していた自分たちがまだ同族婚をして純血であった側、邇邇芸命らに帰順したとも考えれる、。長髄彦は、長い足を持つ男性という意味で、八握脛(やつかはぎ)とか大蜘蛛ともいう、天皇に恭順しなかった土豪たちをさす。長いすね、の部分に自分たちとは違う先住民への、、婚姻はしたものの穢れた、、という侮蔑意識がある。
ま、聖書と同じで、何度も読むしかないですね、。
マリア
長髄彦は天孫である饒速日命に忠誠を尽くそうとした、、饒速日命は邇邇芸命の兄神、、そして自分も、自分の妹と饒速日命が婚姻しているので、、邇邇芸命の義理兄となる、。長髄彦は弟である者が、兄である自分たちを差し置いて支配するのは納得できなかったのでしょう、。
邇邇芸命の兄神である饒速日命が、、天神と人は違うのだ と長髄彦を諌め諭していますから、。古代イスラエルでは、、たとえ、弟であろうとも神様から祝福を受けた者が、家長となった。基本的には長子権と長子による相続であるけれど、。長髄彦は饒速日命の言うことを聞かず、ごね続けたので、饒速日命は痺れを切らして、いつまでもごねている長髄彦を殺して弟神の邇邇芸命に帰順した、。
ちなみに各地にある天照大神を祀る神社の神は女神ではなく男神になっていて、、正式名が、天照国照彦 天火明 櫛甕玉 饒速日命。女神である天照大神以前の、、男神(彦)としての天照神は、、饒速日命と同じ名ニギハヤヒのミコトという名前を持っていた、。もともとは、饒速日命も天照神と同じように天孫で天津神、でも、地祇(国津神)である長髄彦の妹と婚姻したことで、、国津神、人側の立場に落とされたとみなし、人側としての因子、自分の義理の兄を滅ぼしてまで天津神に帰順したことで天津神(天照大神)と同格とされたのだろうか。
単純に、、大和地方を治めていた先住縄文人である長髄彦の一族と、天磐(あめのいわ)船に乗り大和地方に天降りった(渡来してきた)饒速日命とが婚姻により混血する。あとから饒速日命と同族である渡来系弥生人、邇邇芸命らが来て、、この二派が出会って、印を見せ合って同族と認めあい、混血していた自分たちがまだ同族婚をして純血であった側、邇邇芸命らに帰順したとも考えれる、。長髄彦は、長い足を持つ男性という意味で、八握脛(やつかはぎ)とか大蜘蛛ともいう、天皇に恭順しなかった土豪たちをさす。長いすね、の部分に自分たちとは違う先住民への、、婚姻はしたものの穢れた、、という侮蔑意識がある。
それでも、、何で、、天照大神に男神バージョンが存在して、、饒速日命と同じ名ニギハヤヒのミコトという名前を持っていたのか??と言うなぞは残る。もしかしたら、天照大神を、男神ではなく女神にしておかないといけない、何かの理由があって創作された伝説なのかしら??天照大神と名を変え女神とし、男神としては隠され(天孫の傘下に入れ保護され)た神が、饒速日命??もう少し、、ピースがそろえば、、わかるのに、。色々隠された日本神話、、聖書と同じで、難しいですね、。
ま、聖書と同じで、何度も読むしかないですね、。
マリア
10 海人族(参考)
宮本常一氏の研究によれば、三種類の海民が、瀬戸内海にみられるという。(「瀬戸内海文化の系譜」)
第一は、男女共漁をする海民で、北九州から瀬戸内海山陰海岸に移動してきた海民である。かれらは宗像三神を信仰し、あわびや魚、海草を採取しながら移動する定着性の低い海民であった。尼崎、海部などの地名が残っているのは、かれらの居住地と推定できる。
←追加、多くは、山陰海岸、西九州海岸などにも進出した。
第二は、男漁女耕をする海民で、南九州から瀬戸内海に移動してきた海民である。かれらは大山祇を信仰し、四国側を中心に定着し、後に村上水軍などの海上の武装勢力を形成した。
第三は、半農半漁をする定着民で、瀬戸内海に定着していた在来海民である。かれらは、住吉の神を祀り、遠浅で磯漁の条件の良いところに居住した。貝の採集に優れた技能をもっていたかれらは、あわびの採取、交易、製塩などに従事し、供御人などに任ぜられて朝廷との関係を結んだ。
綿津見、本拠地は、志賀海か
志賀海神社、宇美八幡宮、勝馬神社、武内宿祢社などがあり、粕屋郡にあたる。「粕屋郡:かすやぐん」粕屋郡、糟屋、糟谷、滓屋とも記される。古代~現在の郡名。「古代」『和名類聚抄』の郷は香椎、志珂、厨戸、大村、池田、阿曇:あづみ、柞原、勢門:せと、敷梨の九郷。
式内社香椎宮は仲哀天皇を祀ったものといわれるが、古来祭神は神功皇后とされ、新羅との関係が悪化するごとに朝廷から奉幣使が派遣された。
「志賀海神社」祭神は底津綿津見神、中津綿津見神、表津綿津見神。海の中道から志賀島へ渡った入口にある集落の奥まった山手に位置する。付近には縄文時代の遺跡も存在し、当地は古来北九州の海上一帯を中心に海人を支配し、全国的に活動の跡がみられる阿曇氏の本拠地でもある。志賀島大明神を宗像大菩薩御縁起(神道大系神社編宗像)や八幡愚童訓(思想大系)は神功皇后の三韓出兵の舵取りをしたと記す