継体天皇に反乱した筑紫君磐井は罰せられましたが、海人族安曇氏の母から生まれた子孫たち、例えば葛子、勝村・勝頼はお咎めなしで繁栄しました。実は、筑紫君磐井までは断絶した武烈天皇とつながりがあった葛城氏にゆかりがあり、筑紫君葛子以下の子孫達は継体天皇以降とつながる蘇我氏にゆかりがあった。この葛城氏と蘇我氏は共に母系の海人族安曇氏に入婿した男達であった(参考)。
彼ら男子は互いに争い興亡を繰り返すが、母系で見ると海人族安曇氏の一族の女系女子の万世一系の血筋を保っていた。武内宿禰の子孫たちも北九州から大和に東遷したが、いつも互いに争っていた(参考)。
参考
① 継体天皇に反乱を起こした筑紫君磐井について、宮地嶽神社では「葛子は安曇族だ」と伝えています。磐井は、粕屋郡の豪族の姫を娶って葛子が生まれた。葛子は宮地岳の麓に住む谷殿を娶って勝村・勝頼が生まれたと考えています。葛子の子「勝村・勝頼」が宮地嶽古墳に埋葬されていると伝えているのが、宮地嶽神社です(参考)。
宮地嶽古墳の規模からの推定では、この勝村・勝頼が蘇我稲目の父の高麗あたりに相当するか?
古賀市の船原古墳から出土した漆塗りの馬具は宮地嶽古墳と同じものだった。福津市の宮地嶽神社周辺から古賀市は海人族安曇氏の地盤であった。
宮地嶽古墳について、通説の被葬者の宗像君徳前とは埋葬時期も異なり、勝村・勝頼埋葬説の方が正しい。
③ 船原古墳からガラス装飾馬具が出土した!奈良県斑鳩町の藤ノ木古墳に次ぐもので、蘇我氏とのつながりが伺われる(参考)