神武東征も応神天皇のヤマト帰還も海人族安曇氏の東征神話 | 日本の歴史と日本人のルーツ

日本の歴史と日本人のルーツ

日本の歴史と日本人のルーツを解明します。

基本的に山口県下関市を視座にして、正しい歴史を探求します。

ご質問などはコメント欄にお書きください。

学術研究の立場にあります。具体的なご質問、ご指摘をお願いいたします。

神武東征も、神功皇后と応神天皇のヤマト帰還も共に、海人族安曇氏の東征神話でした。

すなわち、海人族安曇氏の長、武内宿禰の子孫たち、葛城氏、平群氏、巨勢氏、蘇我氏、羽田氏、紀氏、他も北九州あたりからヤマトに移動し、特に葛城氏と蘇我氏は娘たちを皇后として天皇家に嫁がせ続けたことになる。

まるで武内宿禰は皇后・女帝達のルーツであった(参考)。


参考

①-1 神武天皇の母は玉依姫、海人族安曇氏の祭神、大綿津見命の娘(参考)

{DEC6177B-D665-4F0B-BEA2-190C66D32598:01}

{AF075565-FA33-4DD5-AEDA-E7E8C56D5E12:01}

①-2 神武天皇、綏靖天皇、安寧天皇、懿徳天皇の初期の4天皇の皇后は出雲の事代主神の子孫の女子であった(参考)。ちなみに、事代主神は武内宿禰、安曇磯良と同一神である。

大和朝廷草分け期に於ける葛城氏の皇室との繫がりがとりわけて深いことが判明する。大和王朝初代の神武は、事代主命の子でもあるヒメタタライソスズヒメを、二代目の綏靖は媛踏鞴五十鈴媛命の妹の鈴依媛(すずよりひめ)を、三代目の安寧は事代主神の孫である「鴨君の女」を、四代目の懿徳は事代主命の孫の「鴨君の女」の娘を后妃にしていることから見ても分かるように、大和王権の初期はに出雲王朝の事代主系の后妃が次々に立っている。神武、綏靖、安寧、懿徳の初期4代の墳墓は畝傍山の山麓に集められていることも注目される。これを確認しておく。

日本書紀によれば、後に神武天皇となる彦火火出見(ひこほほでみ)が大和の地を征服後、国中を一つに統べる都を造る場所を物色した時、「見れば、かの畝傍山の東南の橿原の地は、思うに国の真ん中である」と宣べ、「畝火の白檮原(かしはら)の宮」を造営している。辛酉(かのととり)の年の春1月1日(西暦の紀元前660年)、彦火火出見は、新装なった白檮原(かしはら)の宮で初代神武天皇として即位した。初代神武天皇は、鴨族が祖神とする事代主神(ことしろぬしのかみ)娘の媛踏鞴五十鈴媛命(ひめたたらいすずひめのみこと)を娶って皇后としている。(古事記では、この説話を三輪伝説に引きつけて潤色しており、三輪山の大物主神(おおものぬしのかみ)が見初めた女に産ませた娘を媛踏鞴五十鈴媛命(ひめたたらいすずひめのみこと)が神武の皇后になったとしている)。



② 応神天皇の母は神功皇后、皇后の母は海人族安曇氏の一派(葛城氏の出、参考)

{D1637EAD-89BC-445C-9EF3-DC217C42F263:01}
{6B775CB9-5DB4-487B-8D7C-D191F0B8CC52:01} 


③ 武内宿禰の子孫

{A3F0B80C-46D7-4EB4-B57D-27F0ACE904D9:01}


④ 崇神天皇も海人族安曇氏の入婿(参考)


⑤ 倭迹迹日百襲姫(卑弥呼、臺輿)も海人族安曇氏の女(参考)


⑥ 余談、後世の源平合戦も海人族の意向で勝敗は決まっていた(参考)!