弥生時代初期あたりから、海人族安曇氏は九州地方から東北地方まで稲作の水田開発、物産の交易などの活動を行っていた。東日本では、在来系弥生人、すなわち縄文人が海人族安曇氏の最新知識による水稲と条里制地割の水田を導入したと考えられる。これにより、海幸と山幸の交換が可能になった(参考)。さらに、塩の生産・流通も海人族安曇氏が管理したようだ(参考)。
また、海人族安曇氏の頭領、武内宿禰が東国を巡回し、天皇に日高見国について報告している。7世紀中頃、武内宿禰の子孫達が東国の長官として派遣されていた。
① 東日本での稲作(参考)
青森県八戸市に風張遺跡という大規模集落遺跡がある。また国の史跡是川遺跡とは新井田川を挟んで対岸にある。縄文後期の竪穴住居址184棟・掘立柱建物址19棟・土壙墓127基などが出土している。平成元年の発掘調査で竪穴住居址から7粒の炭化米が出土した。これを放射性炭素年代測定を行った結果、2粒が縄文後期末葉のモノと断定されたと云う。またプラントパールも検出されている(参照)。
青森だけでなく東北地方全体に伝わったようである。弥生前期初めから遠賀川式土器を伴う水田農耕文化が北部九州から急速に東進して愛知県西部に達し、そこで伝播は一息ついた。その後水田稲作の亀ヶ岡文化圏への浸透は弥生中期から徐々に始まったと信じられていた。森の恵みに基盤を置いた旧来型の亀ヶ岡文化圏での抵抗があったからである。
ところが1982年、青森県南津軽郡田舎館村で垂柳遺跡から弥生中期の立派な水田址が発見され、さらに1987年には弘前市の砂沢遺跡から遠賀川系土器を伴う水田遺構が発掘され、弥生時代前期の段階ですでに本州北端の地域まで水田稲作が到達していたのである。
青森やその周辺の人々が水田農耕技術の渡来に敏感に反応し、西日本地区に遅れることなくほぼ同時期に導入を果たしたことは注目すべき事実である。ただ東北の稲作は西日本のように地域を蓋ってしまうような面的広がりをしたわけではない。あくまで点として分布していた。しかも気候が冷涼化する弥生後期には逆に衰微する傾向さえ見られる。おそらく水田稲作を導入したもののその土地に適応する品種の開発など考えていたほど簡単なものではなかったであろう。
②東日本と西日本の交流(参考)
東日本縄文人は板付に集落が成立したとき、水田稲作が伝来して西日本に広がり始めたとき、東日本の縄文土器が当時、突如として西日本各地に展開された。西方への展開の最初期のもののほとんどは、亀ヶ岡系の土器ばかりであるところから、東北と北陸の集団が中心だというのである。さらにその中には青森から福岡への移動を物語る例もあったそうである。
⑤ 東北地方の条里制地割の水田遺構(wikiより)
⑥ 武内宿禰は東国まで活動していた
wikiによると、武内宿禰が北陸及び東方諸国を視察して、「東の夷の中に、日高見国有り。その国の人、男女並に椎結け身を文けて、人となり勇みこわし。是をすべて蝦夷という。また土地沃壌えて広し、撃ちて取りつべし」と述べた。
⑦ 安曇氏(阿部氏)は九州から蝦夷の地まで活躍した(参考)
⑧ 東国(日高見国)の支配は武内宿禰の子孫、巨勢、平群、紀、羽田(波多)、安曇たちだった(参考)
10 現代、東北地方の条里制地割
11 海人族安曇氏とは(参考)
海を渡り、新天地、古代日本にやってきた彼らは、縄文時代の日本に中国大陸の技術文化などを持った自分たちを含めた弥生人を日本に届け、新しい社会、すなわち弥生時代を創り上げていったのである。安曇氏と呼ばれた彼らによって導かれ、中国などから渡来した弥生の渡来人らが、この日本に新しい文化を築き上げたのである。( 参考1、参考2、参考3、参考4、参考5、参考6、参考7、参考8)
12 塩竈神社、陸奥国一宮
13 日高見神社(参考)
祭神
天照皇大神、天日別命 (配祀)日本武命、武内宿禰命
三代実録に「陸奥国日高見水神」とあるので往古は北上川の河神ではなかったかと思われている。北上川の流れる流域はむかしは日高見国といわれ、水と太陽に恵まれた肥沃な大地であった。北上川は日高見川のなまったものと言われている。この日高見国の中心地は仙台平野でしたが、大和朝廷の度重なる軍事的な侵攻によって胆沢地方(岩手県の水沢を中心とした北上盆地)に最後の拠点をのこすだけになり、この最後の拠点も802年の坂上田村麻呂によって阿弖流為(あてるい)が降伏して、陥落した。
14 東北地方の武内宿禰(参考)
15 海人族安曇氏は北九州が拠点だった(参考)
16 海人族安曇氏自ら陸上がりして開拓した安曇野市や渥美半島の先端の伊良湖岬あたりが美しい条里制地割になっている(参考)
17 その他、安曇、志賀、鹿島など安曇氏ゆかりの地(参考)
18 ウガヤフキアエズ王朝の歴史は海人族安曇氏の全歴史(参考)