五世紀(古墳時代中期)に入ると弥生時代とは異なり、湿地帯から堅い灰褐色土壌を中心とする地域に水田が開かれ、用水路や溜池を造って水を導入する潅漑がおこなわれる。堅い土を掘り起こすには、丈夫な鍬や鋤が必要であり、ほぼ一三〇〇度位の熱が必要である。弥生式土器は約八〇〇度の焼成温度で製作されていたが、古墳時代の須恵器の焼成温度は一三〇〇度で、農具や須恵器だけではなく、鋭い武器も造り出した。古墳の築造そのものが大変な土木技術であり、弥生時代とは隔絶した高度な技術の成果である。この新しい技術を持った人々が、中国江南地方や朝鮮半島から大挙やってきたのが五世紀である。かれらは農具や須恵器や武器だけではなく、すぐれた絹織物をはじめ多くの文物をもたらし、さらにこの時期に動力革命と呼ぶべき馬が伝来した事である。(参考1、参考2)
参考
上記分布は民俗学伝承ひろいあげ辞典の安曇氏、秦氏の分布を引用
海人族安曇氏
古代日本を代表する海人族、中国や朝鮮半島とも交易などを通じて文化的、人的な関連がある。最初の本拠地である北部九州の福岡志賀島一帯から拡大し、全国に移住した。秦氏の渡海プロジェクトを遂行した。武内宿禰が安曇磯良と同一神で安曇氏の長である。記紀に記載があり、「日本書記」の応神天皇の項には「海人の宗に任じられた」と記されている。(安曇氏、志賀海神社1、志賀海神社2)
海人族住吉氏
安曇氏と兄弟的な一族で沿岸漁業を生業とし、住吉大神の託宣で穴門に鎮座し、軍事、沿岸防衛と航海の安全を任務とした。住吉氏はしばらく北九州海域を根拠地としたが,瀬戸内海にそって拡大して行った。
海人族宗像氏
神代は、宗像地方と響灘西部から玄海灘全域に至る海域を支配し、潜水漁を主な生業としながら朝鮮半島からの日本に向けての沖ノ島経由の海北道中ルートの航海を支配していた。仲哀天皇のころ、神功皇后が三韓征伐の直前に宗像三女神に協力を依頼した。秦氏などの渡来人の渡海に協力した。瀬戸内海よりも日本海側を東進して拡大した。(宗像大社)
現在の北浦海岸の海人族の分布によると、北浦海岸の旧豊浦町から粟野以南は住吉海人族、旧下関市は三氏族混住、粟野以北に宗像氏が進出していた。
北九州市門司区の海人族安曇氏の氏神、和布刈神社では「和布刈神事」が行われる。謡曲では、寅の刻になると龍神が潮を守護し、まるでモーゼの出エジプトのように波が四方に退いて屏風を立てたようになり、海底の砂平平たる状態になると、神主が海中に入って水底の和布を刈るのだが、神主が海から上がるとほどなくして潮が満ちてもとの荒海に戻るのだと語られる。海人族安曇氏はエジプトを出て海を渡って、南回りで日本に早くたどりついたとの説がある(参考)。
縄文人がD2系YAPを持っているのに対してシベリア経由と南回りの2系統あり、海人族安曇氏は南回りであろう(参考)。
注意: 本報告は初期(2014.12)の研究であり、現在(2016.12)から見れば誤解もあるが、大筋は正しいと考えている。海人族安曇氏はC1系統で縄文人のD2系統とは、漢民族のO2やO3より、近縁と言える。