長門城の場所について定説は確立されていない。拙著では、既に北浦海岸の山の鬼ケ城山であると指摘していた。
ただし、日本書紀では二ヶ所に城を築いたと書かれている。すなわち、もう一ヶ所は山城では無い可能性がある。
白村江の戦いの敗戦後、長門国府を北浦海岸側では無く周防灘側の長府に設置して守りの体制を取った。すなわち、今回発見した長府の土塁であるが、太宰府市の水城と同じく四王司山からの土砂崩れを防ぐと同時に、北浦海岸側から上陸、侵入して来た外敵を足止めする機能が期待されたと推定する。
現在、長府の忌宮神社と氏子達は土塁の南端の「忌宮神社」と北端の「八幡御旅所」を往復してお祭りを開催するが、白村江の戦いの敗戦以来の恒例であろう。
参考
① 長門城(参考)
日本書紀の記述では、665年(天智天皇4年)、670年(天智天皇9年)の各項目で長門城を築いたとある。2回にわたって同じ城を工事したとも、2ヶ所に築いたと読むこともできる。
しかし、長門城、どこに築かれたのか定かではない。例えば大野城や基肄城と似た形式の遺構が見つかっていないためである。今まで見つからないのはもともと造られていないのではないか、という説もあるほどなのだ。
②-1 長府の土塁(参考)
②-2 長府の土塁は今でも増大している(参考)
⑥ 下って元寇の時に本件の土塁が築造された可能性も否定出来ない。しかし、元寇では石塁が建設されたとされ、規模の点でも本件の土塁の方が大きい(参考)。長門国府(忌宮神社)を守ることを想定すると、太宰府市の四王寺山と水城、下関市長府の四王司山とこの土塁の関係など、白村江の戦いと強い関連を伺える(参考)。
⑦ 長府の山崩れに関する元寇の時の事例(参考)
弘安四年(一二八一)六月、東路軍の一隊が室津に現れ、攻撃。先に杜世忠に従って、室津に拘留された船員数人が逃亡して四年後に帰国し使節斬首を報告、これが案内し、敵討ちと、攻めて来た。長門だけでなく、中国・四国の武士も固めていたが、石塁(長門石築地)の高さ・長さが不足していたのか、東路軍の上陸を許し、石塁を越えられる。厚母には戦闘の伝承が有り、阿蔵の千人塚は桜木蔵人が元兵を討ち、葬ったといわれ、安養寺の大仏は、外敵降伏、国土安穏祈念の為、京都から移座したと伝えられるが、長門鋳銭所が周防に移った址に国分寺の奥の院として安養寺が建立され、地名に残り、のちに山崩れで倒壊し、厚母に移って来た。
⑧ 北浦海岸側に住む著者は住吉神社の氏子であり、忌宮神社の氏子では無い。ここに住吉神社と忌宮神社の関係を推し量ることが出来る(参考)。すなわち、忌宮神社と氏子達は白村江の戦いの敗戦後に駐屯した天智天皇以来の大和の勢力であろう。
⑧ 額田王と天智天皇は安岡の蒲生野で猟遊した(参考)
⑨ 実は外敵の侵攻ルート(青矢印)に勝山(かつやま)とか勝谷(しょうや)と言う地名がある。後の元寇に関するものか、戦国時代のものかどうかも確認していないが、戦いに備えた地名と考えられる。ところで、幕末の攘夷戦争では関門海峡を通過する外国艦船の上陸作戦に備えて、長府藩主の仮の居城、勝山御殿(田倉御殿)や土塁を築いた地であった。
10 穴戸豊浦宮は綾羅木川の下流の条里制水田あたりであったが、上流の綾羅木川、砂子多川の源流は花崗岩地質の四王司山、勝山、青山であり、流れ出た真砂土の土砂を浚渫した工事が穴戸の開削伝説になった(参考)
11 長門城の一つ鬼ヶ城山の鬼とはタタラ製鉄の職人であり、かつ長門城の兵士であった(参考)
12 長府の土塁は大慌てで一挙に作ったのでは無く、町の成長に合わせて延長させていた(参考)