現在の下関市の歴史は源平合戦からであった! | 日本の歴史と日本人のルーツ

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平安時代末期、長門国は平氏の知行国であった。すなわち、平氏ゆかりの国司が長門国衙に勤務し、最後の戦場を長門国として平氏は落ち延びて来た。しかし、長門国の中、現在の下関市の地図を見ると、東部の長府、北部の安岡以北、関門海峡沿岸は源氏に味方した。

すなわち、平氏に味方する地域は長門国衙のある綾羅木川流域から彦島あたりであったと推測される。ついに平氏は敗北し、綾羅木川流域は破壊され忘れ去られ、長府に源氏の鎌倉幕府から差し向けられた守護が勤務した。

綾羅木川流域に平氏の伝説が無いのは、この辺りの肥沃な水田地帯を源氏に忠誠を誓った農民に独占的に耕作を許したからであろう!こう考えると腑に落ちる。

だから、長府には国衙は無かった。日本書紀にある古代の歴史は源氏方に味方した忌宮神社に全てを奪取されたのである!長門国分寺や総社は元々は綾羅木川流域にあったが、鎌倉時代に長府に移築されたのであろう(参考)。

平安時代までの長門国衙のあった綾羅木川流域に寄り添った住吉神社が鎌倉時代も鎌倉幕府の介入出来ない朝廷支配の神社であった。


参考

①-1 源平合戦において最後の戦場は壇ノ浦であったが、平家は彦島、源氏は安岡あたりに陣取っていた(参考)

①-2 安岡に陣取った源氏軍は数万人の軍勢であった(参考)

①-3 黒井と川棚の中間に吉永八幡宮があるが、進駐して来た源範頼が創建した(参考)


② 関門海峡にあった八幡宮は源氏に味方した(参考)


③-1 長府沖に浮かぶ、古来からの神の島【満珠・干珠】は(「忌宮」の飛び地境内)、源平の壇ノ浦合戦の時、源氏が陣を張った所で知られています(参考)

③-2 平安期末、壇ノ浦の合戦で、源氏方は長府沖の満珠・干珠島に集結し、下関の引島(彦島)に陣を敷いた平氏と決戦を行います。一説には、この水域の潮流に詳しい長府・串崎の水軍が源氏方へついたのが、源氏方勝利の一因と言われています。平家滅亡後の文治二年(1186)、宇治川の先陣で知られる佐々木高綱が守護として長府に入り、中世の長府は、国府の代わりに守護所が置かれた(参考)


④ 忌宮神社(参考)

忌宮神社は長門国二宮として古来より、文武の神・勝運の神 として、歴朝や武家の尊崇厚く、また安産の神として信仰を受けてきました。

かの足利尊氏にいたっても楠木正成に敗れたのち、九州へ落ち延びる途中、武運の神として知られる神功皇后の社壇(忌宮)に詣で再起のご加護を祈願したところ神願が叶ったという霊験あらたかな逸話もあり、多くの方がご祈願に訪れます。

足利尊氏が神願成就に感謝し詠んだ法楽和歌は今も当社に重要文化財として残っております。祈願は神様の御加護を頂けるように願いを求めるお祭りであり、 願えば必ず叶うというものではなく、願い手の努力が必要となります。 皆様におかれましても真心を込めてお願いを行うことが大切です。


⑤ 長門国は平氏の領国だった(コトバンクより)

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⑤-1 『源平盛衰記』に「平家年来の侍候人」とあるが、その中に長門国の郡東司秀平・郡西大夫良近・厚東入道武道(武光)らの名が見えている(参考)

⑤-2 1185年の源平合戦時、
  • 長門国は新中納言平知盛卿の領地であり、
  • 国司代理(目代)は紀伊刑部大夫通資という者であった(
  • 参考)

    ⑤-3 1168年8月付の長門国司庁宣で平経盛(清盛の弟)が長門国司、1177年9月付の長門国司下文で平清盛が知行国主であったことが分かる(下関市史より)。

    ⑤-4 吾妻鏡では、豊西郡(豊浦郡の北浦海岸側)の郡司弘元は平氏方であったため、長門国向津奥庄地頭職を没収された(下関市史より)。

    ⑤-5 この没収された地(現油谷町)は平氏方の配流の地となり、松浦高俊は平清盛の側近で平氏方の水軍として活躍した為、ここに流罪となった(参考)


    ⑥ 長門国府は綾羅木川流域にあった。

    考古学的には古代、綾羅木川流域に穴戸豊浦宮があり、さらに7・8世紀を飛び越え、平安時代に入ると日常生活を示す遺物を伴う数多くの掘立柱の住居をもつ大規模な集落が出現している。それらのうち三面庇や四面庇の正殿と後殿や、それを取り巻く多くの建物跡から構成された一群は官衙的プランと構造を示すことから、長門の国司関係の邸宅官衙説と豊浦郡家説がある(参考)


    ⑦ 鎌倉時代の長府(参考)


    ⑧ 鎌倉時代の守護代の屋敷が下関市安岡町冨任にあったが、この地は綾羅木川流域を監視する位置にあった(参考)


    ⑨ 安岡浦の漁師は平氏に味方した(参考)。彼らは防人軍団の豊浦団の末裔であろう(参考)


    10 幕末に結成された長府報国隊(長府藩の正規軍団)は長府の忌宮神社では無く、一宮の住吉神社境内で結成式を挙げている(参考)


    11 侍町(参考)

    文治元年(1185)に、壇之浦合戦で敗れた平家の残党追討の命を受けた土肥次郎実平(どいじろうさねひら)が入封し、この辺りに居住していたため、こう呼ばれるようになりました。藩政期には、家老格以上の上級家臣の役宅がならんでいました。


    12 功山寺(参考)

    鎌倉時代創建、唐様(からよう)建築の美しさを保つ仏殿は、わが国最古の禅寺(ぜんでら)様式を残しており、国宝に指定されています。また数々の歴史の舞台となったところで、毛利元就(もとなり)に追われた大内義長(おおうちよしなが)が自刃(じじん)したり、高杉晋作が明治維新の転機となる旗揚げをしたところでもあります。


    13 鎌倉時代の住吉神社(参考)

    神社は朝廷の管轄で、鎌倉幕府の守護、地頭は介入出来なかった。すなわち、長門一宮の住吉神社は平安時代と同じく朝廷支配だった。ここに、二宮の忌宮神社との関係が興味深い。

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    14 鎌倉時代からの山城に守られた武士の町、長府(参考)


    15 九州は平氏の知行国であり、北九州から彦島に陣取る平氏と本州本土の源氏が関門海峡の海上で源平合戦を繰り広げた(参考)


    16 綾羅木川流域の秋根遺跡や延行条里遺跡は平氏の長門国府でもあり、源平合戦まで存在した(参考)


    17 日宋貿易のルートでもあった(参考)


    18 長府より綾羅木川流域の方が日宋貿易の輸入陶磁器を多く購入し、長門国の経済活動の中心であった(参考)


    19 山口県の北浦海岸(長門国沿岸)に沿って中世の人骨と輸入陶磁器が出土しており、日宋貿易の受け入れ港であった(参考)。住吉神社の社領であった(参考)


    20 まとめ、長門国府の変遷(参考)


    21 長門国府は一宮、住吉神社の近くにあった(参考)


    22 鎌倉時代以来、長門一宮、住吉神社は沈黙している(参考)


    23 住吉神社の社領は源頼朝や鎌倉幕府の歴代将軍から寄進を受けたものであると言う。すなわち、源平合戦前は、平氏の領地または平氏に寄進を受けた社領であった(参考)