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司法試験情報局(LAW-WAVE)

司法試験・予備試験・ロースクール入試の情報サイトです。司法試験関係の情報がメインですが、広く勉強方法(方法論)一般についても書いています。※ブログは完全に終了しました。コメントなどは受け付けておりません。ご了承ください。

司法試験講師のランキングをしてみました。

 

インプット部門・アウトプット部門、それぞれ10点満点です。

友人3名と私の計4名(受験生2名・新司合格者弁護士2名)で意見を出し合って評価を調整しました。

どの講師を受講するか迷われている人がいたら参考にしてください。

 

なお、個々の講師の評価自体は真面目にやっているつもりですが、所詮は忘年会の余興です。

あまり真に受けて怒ったりするのはやめてください。


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【インプット部門】



満 呉(伊藤塾)

 

9 伊藤(伊藤塾)   本田(伊藤塾)

 

8 高野(伊藤塾)  中村(BEXA)   宮武(LEC)

7 山本(伊藤塾)  横山(伊藤塾)  千葉(LEC)

6 吉野(伊藤塾)   釜田(伊藤塾)  白羽広(TAC)

5 岡崎(伊藤塾)   渡辺(TAC)   工藤(LEC)   柴田(LEC)

4 岩崎(LEC)   松田(LEC)  稲村(辰已)

3 辻本(TAC)  西口(辰已)   原(辰已)

2 若手講師陣(辰已)

1 黒羽広(TAC)

0 

 

 

★伊藤塾 インプットの講義力の高さはNo.1。司法試験に「入門」させる能力が最も高い予備校です。

伊藤⇒分かりやすさは受験界No.1。具体例に話を膨らませていく分かりやすさです。

高野⇒塾長に似たタイプ。両者とも、司法試験の森に入るところまでは最適の案内役です。

⇒塾長的な分かりやすさとは逆です。重要箇所をマークで限定していく分かりやすさです。

本田⇒講義のスピード感・トーク力は受験界No.1。次世代のエース候補。声もいいです。

吉野⇒伊藤塾基準では平均的レベル。全予備校基準でいえば上位の講義力です。

釜田⇒伊藤塾基準では平均的レベル。オペラで鍛えた声は好みが分かれます。

横山⇒伊藤塾基準でも平均以上の講義力。珍しい女性講師です。丁寧な話し方です。

山本⇒伊藤塾基準でも平均以上の講義力。ざっくばらんな感じの話し方です。

岡崎⇒伊藤塾基準では講義力はあまり高くないほうだと思います。

 

★TAC(Wセミナー)  世代交代の真っ最中です。伝統的に条文重視の講師が多いのが特徴です。

羽広(白)⇒条文講義はかなりのおすすめです。ただし、講義力は低いです。

羽広(黒)⇒応用的な講座は全くおすすめできません。こういうものに逃げてはダメです。

渡辺⇒インプット講義は及第点はクリアしています。話は上手です。

辻本⇒可もなく不可もなくという感じです。話は上手です。

★LEC  インプットは伊藤塾的。上半分が伊藤塾に移籍してしまって、下半分がLECに残った感じです。

岩崎⇒伊藤塾の呉講師と似たタイプ。教材加工を細かく指示していくタイプの講師です。

柴田⇒著作ほどの良さはありませんが、講義力は及第点はクリアしていると思います。

工藤⇒入門テキストはコンパクトで良いです。講義レベルが高いです。

千葉⇒TACからLECに移籍した講師。伊藤塾的。講義はシャープで分かりやすいです。

宮武⇒伊藤塾からLECに移籍した講師。インプットの講義力はLEC内ではNo.1です。

松田⇒短答知識の総まとめ講座を聴いた感じでは、可もなく不可もなくです。

 

★辰已  ほぼ全員が「実務が本業」「講師は副業」の講師なので、どうしても評価は低くなります。

西口⇒元気があるところはgood。ただし、準備不足のやっつけ仕事の感は否めません。

⇒入門段階から論文が意識されているところは評価できます。講義力は低いです。

稲村⇒大学受験予備校講師の経験あり。講義慣れしている感じで分かりやすいです。

若手講師陣⇒辰已にはプロと呼べる講師がいません。受験生を舐めないで欲しいです。

 

★BEXA  プラットフォーム型のネット予備校です。
中村⇒基礎講座は徹底した条文重視です。少ない回数で全体を一気に総まくりします。

 

 

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【アウトプット部門】



満 中村(BEXA)

9 吉野(伊藤塾)

8 白羽広(TAC)

7 林(TAC)

6 呉(伊藤塾)   工藤(LEC)   原(辰已)

5 山本(伊藤塾)  渡辺(TAC)   柴田(LEC)

4 岡崎(伊藤塾)   柳澤(辰已)

3 西口(辰已)   稲村(辰已)

2 若手講師陣(辰已)  北出(実務法学研究会)

1 伊藤(伊藤塾)   黒羽広(TAC)

0 

 


★伊藤塾  伝統的にアウトプット(方法論)面が弱いです。インプットが上手すぎることが一つの要因です。

伊藤⇒論文指導は漠然とした感じ。話に軸がありません。塾長には方法論がありません。

⇒答練解説はまずまずですが、論文講座は「解答例にマーク」のインプット類似講義です。

吉野⇒論文指導は具体的で、背後に型を感じます。本試験分析講義は秀逸です。

山本⇒実務的観点を重視した論文指導。特にこれといった方法論はない感じです。

岡崎⇒塾長よりは具体的でいいですが、漠然としていて軸がないのは塾長と一緒です。

 

★TAC(Wセミナー)  伝統的に条文と方法論重視の傾向が強い予備校でした。

羽広(白)⇒条文重視の方法論&問題分析手法は素晴らしいです。

羽広(黒)⇒新司の難しさを強調し、受験生を「応用」へ誘惑するのはブラック羽広です。

⇒羽広講師の弟子。条文重視&問題分析に優れています。

渡辺⇒「合格答案の公式」という講座は、方法論系の隠れた名講義です。

★LEC  論文はほとんど工藤講師一人でやっている感じです。工藤講師が去った後が問題だと思います。

柴田⇒応用的な突っ込んだ説明が得意。実力者向け。明確な処理手順はない感じです。

工藤⇒柴田講師の弟子。講義の生産性の高さには感服します。

 

★実務法学研究会  新興予備校。余計なお世話ですが、もう少し授業料は安くしたほうがいいのでは。

北出⇒昔は基本重視の優れた方法論を語っていましたが、今はブラック羽広化しています。

 

★辰已  旧司組のプロ講師をほとんど駆逐し、今では新司組のアマチュア講師しか残っていません。

西口⇒相変わらずやっつけですが、論文指導は、説明が多彩で柔軟性もあって良いです。

⇒インプット講義(入門講座)よりも、論文指導のほうが向いている講師だと思います。

稲村⇒可もなく不可もなくです。特にこれといった方法論はない感じです。話は上手です。

柳澤⇒旧司時代の人気講師。あてはめ重視の方法論です。

若手講師陣⇒ロー卒の合格者講師たちの講義は、まるで素人の合格者講義みたいです。

 

★BEXA  プラットフォーム型のネット予備校です。
中村⇒受験界で最も完成度の高い論文方法論です。基礎講座から大量に問題を潰します。

 

 

 

 

【最終補足】
 

司法試験情報局は、当時の受験界の一般的通念と大きく乖離しないように、ある程度妥協しながら書き進められました。

そのため、いくつかのエントリーで、私の本音(100%の真意)が示されていない部分があります。

このエントリーには、特にその自己欺瞞が強く表れてしまっています(申し訳ありません)。

私の理想の講師観・講座観・教材観は、初めから一貫して変わっていません。

私の最終的な本音(100%の真意)は、下記をご覧ください。

 

司法試験情報局の見解の変化についての釈明<その1>

司法試験情報局の見解の変化についての釈明<その2>


 

 


会場の真ん中に進み出て、右足を「ヒョイ」と上げる(→で、そのまま帰る)。

ただそれだけの競技があったとします。

 

右足をヒョイと上げる美しさ、俊敏さ、力強さ、滑らかさ etc…

競技者がどれだけ右足をヒョイと上げることに習熟しているか。

競技の評価基準はだいたいそんなところでしょうか。

 

いずれにしても、大した身体動作を要するわけではない、極めて単純な競技です。

 

この、右足をヒョイと上げる競技で高い得点をあげるにはどのような練習をすればいいでしょうか。

一番とはいわなくても、相対的に上位何分の一かに入るために、最も必要なことは何でしょうか。


言うまでもありませんが、それは、右足をヒョイと上げること です。

 

本番の競技会場で行う、右足をヒョイと上げる動作と同様の動作を、その人がどれだけ経験したか。

競技の優劣は、この右足を上げる動作の経験の質と量によって決まります。

つまりは、その人が大会までに、どれだけ右足を上げ慣れたか

競技の勝敗は、ほとんどその一点にのみかかっています。


********************

 

 

試験対策も、本来はこれと全く同じです。

実際の本試験会場で行う動作(思考過程)を、その受験生が普段からどれだけ行ってきたか。

その経験の質と量によって、試験の相対的な実力も決まってきます。

 

問題を読んで→解答するという経験を試験本番までほとんどしてこなかった人が、いきなり試験本番で、上手に問題を読んで→解答することは、普通はできません。


使わないパイプが目詰まりを起こすように、日常的に問題から解答へ思考を流していなければ、試験本番で、問題から解答へ向かって思考がスムーズに流れることはありません。

問題を読んで→解答することができるのは、問題を読んで→解答する経験をしてきた人だけです。

問題を読んで→解答することができるようになりたかったら、普段から問題を読んで→解答するしかありません。

 

そうやって、問題→解答へ向かうパイプを、太く、強くしておく しかありません。

つまりは、問題を解き慣れる しかありません。

これはあまりにも当たり前の理屈です。

問題を解き慣れた人には、問題が解ける。

問題を解き慣れていない人には、問題が解けない。


右足をヒョイと上げることと、まったく同じ理屈です。

ところが、試験の話になった途端、多くの受験生がこの単純な理屈を複雑にしてしまいます。

多くの受験生が、問題を解き慣れることと間接的にしか関係のないことに、多くの労力を使っています。

 

いろいろな情報に惑わされて、「なんか最近、頭の中が複雑になってきちゃったな」と思ったら、いったん、この右足をヒョイと上げる競技まで戻ってください。

 

 

 

 

【補足】


この補足は、付記を挿入した箇所が特に多いため、ピンク字青字の部分は(関心のある方以外は)飛ばしてください。

 

実は、右足を上げたときに得られる、その人に固有の具体的効果は、人によって異なります

 

「え? 右足を上げたら、右足を上げられるようになるんじゃないの?」

このブログを読まれてきた方の中には、あるいはそう思われる方がいるかもしれません。

 

もちろん、抽象的にいえばそれはその通りなのですが、その人がどのようにして自分の右足を上手に上げられるようになるか、というその人個人に帰属する具体的効果は、実は、人それぞれとしか言いようがないのです。

 

右足をヒョイと上げるために必要な動作や筋力は、細かくみれば数えきれないほどあるわけです。

 

たとえば、右足を上げるには、当の右足の筋肉はもちろん、背筋だって臀部あたりの筋肉だって使っているでしょうし、筋肉とは別のバランス感覚のようなものも働いているでしょう。

 

そもそも右足の筋肉だって細かく分ければいくつもあって、おそらくはそれらの全てをバランスよく使うことによってはじめて、右足はスムーズに上がっているのです。いえ、右足の全筋肉だけでなく、たぶん全身の筋肉を無意識にバランスよく使うことで、その人は右足をヒョイと上げているはずです。

 

このように、右足をヒョイと上げるために必要な要素は、個別の筋肉や身体能力だけでも何十個・何百個とありますし、それらの組み合わせまで併せて考えれば、それこそ無数に存在していると考えて間違いないでしょう。

 

ここで重要なのは、人の身体は人によってそれぞれ異なる、という当たり前の事実です。

 

どこの筋肉がどれだけ付いているか(付いていないか)や、どのようなバランス感覚をどのような場合にどれだけ働かせることができるかetc…といったことは、生まれつき、そして(こちらのほうが重要ですが)その人がそれまでにどんな人生を歩んできたかによって、異なってくるものです。

 

ある人はそれまでの人生で下半身を強化してきたかもしれないですし、ある人はバランス感覚を鍛えてきたかもしれない。ある人は日常生活に必要な身体動作以外、何もしてこなかったかもしれない。

 

このような中で、ある人が「右足をヒョイと上げる」ためにどのような筋肉・身体動作を鍛えなければならないかは、(繰り返しますが)人によって異なるとしか言いようがないのです。

 

もっとも、これは完全な不可知論を意味するわけではありません。

この「人それぞれ」の状況の中でも、やはり、誰にとっても絶対に間違いない処方箋は存在します。

 

それが、右足をヒョイと上げること なのです。

 

右足を上げることによって、どの筋肉・身体動作を鍛えることになるかは、たしかに人それぞれです。

しかし、キレイに右足を上げるには、少なくともその中の何かは鍛えられなければなりません。

 

自分で自分の右足をヒョイと上げなければ、その「何か」が具体的に「何」を指すか分かりません。

自分が鍛えなければならない筋肉・身体動作が「何」なのかを知るためにも、右足をヒョイと上げることは、その人にとって必要不可欠な作業なのです。


【暗黙知による欠陥の発見】

 

自分が鍛えなければならない筋肉・身体動作が「何」なのかを知る、というときのこの「知る」は、必ずしも言語化できるものではありません。

 

人間には、表層の言語には還元できない「知る」という認識作用があります

(こういった言語化できない認識のことを、ここから先は「暗黙知」と呼ぶことにします)

暗黙知というのは何も特別な能力のことではありません。
たとえば、私たちが渋谷の交差点を歩いている際に、たくさんの群集の中から友人の顔を瞬時に識別するときにも、この暗黙知が働いています。このとき、私たちは友人の顔を識別するに至ったその認識の仕組みを言語化することが全くできません。人間の顔の形など大雑把に見ればほとんど変わらないものなのに、その微細な情報の差異を私たちは瞬時に読み取ることができてしまうのです。

暗黙知の活動領域は、表層的な知の領域よりもはるかに広大です。また、言語化できない領域であるがゆえに、欠陥があったとしてもその修正が困難な部分でもあります(本当は、欠陥の修正は難しいとも言えるし簡単だとも言えるのですが、とりあえず通常の勉強法では難しいと考えておいてください)。

 

たとえば、Aさんという人がいて、彼が過去問演習によってある論点の理由づけの欠如に気づいたとします。つまり、このときAさんは自分の欠陥を一つ「知る」ことに成功したわけです。もっとも、これは言語化できる認識(欠陥)にすぎません。このような言語化できる類の欠陥は発見も修正も容易です。問題演習によらずとも、基本書や予備校本などのテキスト学習によっても発見→修正することが可能です。

 

この言語的な明瞭さ、悪くいえば上っ面の分かりやすさが、センスの悪い受験生を惹きつけます。

彼らは、その認識力の貧弱さから、自らの意識の表層に表れた言語化可能な領域だけが世界の全てだと思い込んでいます。彼らには言語化可能な世界しか見えていませんから、当然、自らの欠陥もその言語化可能な世界にしか存在しないと思い込んでいます。

 

言語化可能な世界で見つかる言語化可能な欠陥だけを片っ端から修正していけば、欠陥という欠陥はやがて全て制圧できる。そう思い込んでいます。そうやって彼らは一心不乱に言語化可能な欠陥だけをひたすら発見し→修正していくのです。

 

しかし、少し考えてみれば分かりますが、私たちが問題文を読んだり解いたりする行為の中には、言葉で説明し切れない暗黙知が大きくかかわっています。かかわっているというより、その作用なしには何かを読んだり解いたりすることが叶わないというくらいの重大な役割を暗黙知は果たしています。

 

たとえば、あなたがアメリカ旅行の感想を友人に語るとします(あるいは、友人から感想を聞いているとします)。西海岸は暑かったよ~。砂漠が広大だったよ~。空が高かったよ~。ラスベガスは夜でも昼みたいだったよ~等々…色々なことを話すとします。

そのとき、そんな断片的な情報だけで、なぜか話が通じてしまうことがあると思います。私の脳裏に浮かぶアメリカの光景が、友人にも同様に浮かぶのです。あるいは反対に、友人だけがリアルに体験したアメリカの光景が、いくつかの角度から断片的な言葉で説明されただけで、あなたの脳裏にも(言語的な情報をはるかに上回る密度で)再構成されて浮かび上がってくるのです。

このように、表面的な言葉で伝えた以上の内容が、相手に伝わってしまうことがよくあります。暗黙知の作用を考慮しなければ、これは本当はもの凄く不思議なことなのです。あるいは、暗黙知の作用を考慮すれば、これはあまりにも当たり前のことなのです。

こんな断片的な情報だけで人に何かが伝わるというのは、いわば「驚くべき当たり前のこと」なのです。

 

たとえば、人が目の前の文章を読み取るとき、その人はそこに書かれた表面的な文字情報だけを頼りに文章を解析するのではありません。人がその事実を殊更意識しないだけで、大げさにいえば、その人が置かれている環境文脈その他の潜在的な全人格的要素が総動員されることで、目の前の文章は読み解かれているはずです。

 

もしそれらを動員することなく、表面的な情報操作だけで会話をしたり文章を読んだりすれば、その人はある種の発達障害の患者のように、相手から言われた(書かれた)そのままの情報を、まるでロボットのように言われたままの形でベタに受け取ることしかできなくなるはずです。

 

私たちは、表面的な文字情報だけを操作して日常生活を営んでいるのではありません。

問題文の文章を読み解く作業ひとつ取っても、そこには膨大な量の潜在的情報が動員されています。だからこそ、私たちは目の前の文章を読み解けるのです。あるいは、他人と会話を成立させることができるのです。

ですから、Aさんが問題演習をすることで見出した先ほどの「欠陥」は、残念ながら、Aさんのあらゆる欠陥の中のほんの一部でしかありません。「理由づけの欠如」という欠陥はテキスト学習でも発見できるかもしれませんが、暗黙知にかかわるAさん固有の欠陥は、Aさんが目的とする動作を実際に行わない限り発見されることはありません

 

もういい加減誤解はないかと思いますが、その「発見」(=知る)は必ずしも言語化できるものではありません。言語化できないまま、Aさん自身がそのことを「知る」ことが求めらる。そんな類の発見です。

 

「そんな訳の分かんないこと言われたってどうしたらいいんだよ」と嘆く必要はありません。

だって、私たちは毎日のように「そんな訳の分からないこと」を平然と遂行しながら生きているのです。

 

常日頃から人の顔をやすやすと見分けるなんていう「神業」を平然と行っている人間が、司法試験学習になった途端に、基本書やシケタイに書かれている表層的な文字情報の理解・記憶に走るというのは、本当は実におかしなことなのです。

 

人の顔を識別することと、司法試験学習の間に、本質的な違いなど何ひとつありません。

両者を同じではないと感じてしまうあなたのその実感は、完全な誤解なのです。


いったん話をまとめます。

 

右足を上げるために、あなたに必要なことが何なのかを知るためにも、右足を上げなさい

 

人の身体は人によってそれぞれという状況の中で、確実に言えることは↑ここまでです。

 

これ以上の具体的な事柄を、皆に向かって説く人は、ただの嘘つきです。
次にその話をします。

 

私は、目的-手段の譬えとして、よく富士山を例にだします。

 

その例にしたがっていえば、

 

富士山(=目的)のある場所は、誰にとっても絶対的 です。

 

しかし、

 

富士山の見える方角、富士山までの距離、富士山に登るための基礎体力etc…は、あなたが誰であるかによって相対的 なのです。

 

たとえば、Aさんは東京にいるとします。

Aさんは、それまでの人生で得た果実として、地図やトレッキングシューズを手にしています。

 

Bさんは大阪にいるとします。

Bさんは、地図は持っていないけれど、自動車を購入済みです。

 

このとき、AさんとBさんが、いったいをすればいいかは、それぞれで異なります。

 

Aさんは南西のほうに進まなくてはなりません。

トレッキングシューズを持っているといっても、それは富士山に着くまでは封印しなければなりません。

 

Bさんは北東のほうに進まなくてはなりません。

自動車を持っているのは素晴らしいですが、その前に地図を買い、まずは地図の読み解き方をマスターしなければ話になりません。

 

このように、AさんとBさんでは、やるべき課題がいちいち違うのです。

 

こんなとき、甲さんという、「富士山に行ったことがある」と称する迷惑な人が現れることがあります。
甲さんは、自慢げに皆さんに↓こう言います。

 

「いやいや君たち、富士山に行くにはだね。とにかく徹底して南に向かってまっすぐ歩くのだよ。

君たちの前には必ず山脈が現れて君たちを邪魔してくるから、そのときはトンネルを探すんだ。

私はこのトンネルという便利な道具のおかげで、ずいぶんと距離を短縮できたからね。

分かったかい、南だよ。南を目指して進むんだ。」

 

・・・こんな風に、要らぬ「助言」をしてくる「合格者」が、受験界にはごまんと存在します。

 

なぜ彼らの助言が迷惑なのかというと、合格者の体験談やブログに書かれているのは、「その人」が経験した「その人」固有の具体的処方箋ばかりだからです。というか、本当に「その人」にとって役立った話ならまだ許せますが、大抵は(その人が自覚していなくても)地図も持たずに日本中をさんざん徘徊した挙句、偶然運よく富士山を見つけた、といったような聞くに堪えない話ばかりです。

 

こんな状況だからこそ、私は、

 

・まずはとにかく地図を買うこと

・その地図を使い倒すこと

・富士山を目指していることを強く意識すること

・富士山との関係で自分の位置を測ること

・あなたが富士山に行くために必要な準備をすること

 

・・・等々を提案してきたのです。

 

富士山を目指すことは大事ですが、もっと大事なことがあります。

それは、いまの自分が、いまの自分の位置から、富士山を目指すことです。

 

もっというと、富士山を目指すにあたって、自分に何が足りないのかを知り、富士山と自分がどの方角にどれくらい離れているのかを知ることです(方法論)。

 

最後に、そうやって導き出された富士山と自分との距離を埋めていくことです(努力)。

 

ずいぶんたくさんのことを言ったように思われるかもしれませんが、これらはすべてたった1つの動作を行うだけで済みます。あなたが実際に行うことは、様々なことではなく、たった1つの動作なのです

 

それこそが、右足をヒョイと上げること です。

 

右足をヒョイと上げれば、右足をヒョイと上げることがどういうことかが分かります。

右足をヒョイと上げれば、右足をヒョイと上げるために、自分に「何」が必要かが分かります。

右足をヒョイと上げれば、その自分に必要な「何か」を、最も効果的に鍛えることができます。

 

右足をヒョイと上げる動作の中には、あなたがなすべき全てが含まれています

だからこそ私は、右足をヒョイと上げることを提案してきたのです。


【暗黙知による欠陥の修正】

先ほどの暗黙知の話をもう少しだけ続けたいと思います。

先ほどのピンク字部分で、私は暗黙知に纏わる欠陥の修正は困難であると書きましたが、それは、多くの受験生が好むインプット学習によっては困難である、という意味です。

 

インプット学習は、言語化可能な情報の習得だけを目的としていますが、このような学習をいくら行っても、言語化可能な情報が修正→付加されていくだけで、その学習効果は暗黙知に届きません

 

暗黙知を鍛えたいならば、実際に暗黙知が働く状況で、それを行わなければなりません

1000人の見知らぬ人々の顔を一瞬で識別できるようにしたいときに、人間の顔のパーツの配置や表情筋の変化についての研究論文をいくら読んだところで、そんなものは大した役には立ちません。

 

そんな情報をいくら集めても、「1000人の顔が識別できない」という現時点でのあなたの欠陥を修正することはほとんどできません。1000人の顔を一瞬で識別できるようになりたかったら、実際にその1000人に会って、それぞれの顔をしっかりと見て、様々な状況においてそれを識別できるようにシミュレーションを繰り返していかなければどうしようもありません。それが、1000人の顔を識別するための、最も手っ取り早い方法です。暗黙知を鍛えるとはそういうことです。

 

もっとも、この方法で欠陥を克服しても、おそらくあなたは、なぜ自分が1000人もの顔を識別できるようになったのかを正確に言葉で説明することは最後までできないでしょう。

でも、それでいいのです。「全てを言葉にしよう」「全てを言葉にできるはずだ」という考え方のほうが、人間の本性に反した異常なものの見方なのです。

 

人間の認識・判断は、そのほとんどが言語化できない暗黙知の産物です。

それを鍛えようというのですから、自らの勉強に無理に言語的な根拠を与える必要はないのです。

 

表層の意識が決してなしえないことを、暗黙知は当たり前のように行います。

先ほどから暗黙知の作用を「発見」と「修正」に分けていますが、暗黙知の領域では、「発見」と「修正」は本来渾然一体のものです。暗黙知はまるで免疫機能の如く、欠陥を発見した途端にそれを自動的に修正していきます。そこに人間の意識的作用が参加できる余地は少ないでしょう。

 

意識的コントロールが効かないことを嘆く必要はありません。むしろ、意識(≒知識)の介在する余地が少ないからこそ、暗黙知の「判断」は正確なのです。私たちは、自らの暗黙知の働きにもっと信頼を寄せるべきです。


このように、

誰にとっても絶対に必要なあたりまえの動作を行い、

・誰にとっても絶対に間違いのないあたりまえの手順で(まさにトートロジー的に)考えていくことが、

その人にとって必要な「何」をあぶり出すための、最も確実で効果的な方法なのです。

 

しかし、この「あたりまえ」の提案は、一部の受験生にはなかなか理解が難しい事柄のようです。

 

たとえばある人は、そんな提案はトートロジーだから無意味だと言います。「なるほどなぁ~」と思います。適性試験などで生半可に論理を食い散らかしてきた人がいかにも言いそうな台詞です。

 

しかし、その批判にあえて反論するなら、論理や言語表現は全て、言葉を言い換えているだけの広義のトートロジーなのです(言い換えの連鎖 で書いた通りです)。

 

すべての文章は、文と文をイコール(=)で繋いだ広義のトートロジーです。

すべての文もまた、単語と単語をイコール(=)で繋いだ広義のトートロジーです。

言葉はすべて広義のトートロジーなのです。


仮に、あらゆるトートロジーを「形式的トートロジー」と呼び、その中で特にトートロジーらしさの強いものを「実質的トートロジー」と呼ぶとすれば、要するに彼らは、ある命題の実質的トートロジー性は、その命題の形式的トートロジー性で全て判別できると思い込んでいるのです。簡単にいえば、論理の形式性だけで事の有様が全部切れると思い込んでいるのです。

適性試験が行われるようになってから、こういう論理の形式性だけを振りかざして何かを言った気になっている「論理警察」みたいな(根本的に頭の悪い)受験生が増えてしまったような気がします。

こういう受験生は、①内容よりも人の属性ばかりを見たがる、②内容よりも権威(ex.出題趣旨)ばかりを頼みにする・・・といった特徴があります。彼らは常に「形式」しか見ません。自分の頭で内容を判断できないから(判断する自信がないから)、形式にばかり目が行くのです。
 

もちろん、広義のトートロジーがあるなら、狭義のトートロジーもあります。本ブログの「トートロジー性」を批判する人たちの言う「トートロジー」とは、この狭義のトートロジーのことなのでしょう。

 

では「狭義のトートロジー」(ここから先は単に「トートロジー」とします)とは何でしょうか。

 

一般に、ある主張を「トートロジーだ」と批判する場合、それは単に形式的な同語反復を指摘しているのではなく、その主張が実質的にも無意味であると批判しているのが普通です。

 

つまり、本ブログの提案を「トートロジーだ」と批判している人たちは、

「司法試験情報局に書いてあることは(形式的に)トートロジーだ」と言いたいのではなく、

「司法試験情報局に書いてあることは(実質的に)トートロジーであるがゆえに無意味だと言いたいわけです。

 

では、「無意味」とは何でしょうか。

言語表現の意味を有用性に求める考え方に従っていえば、すなわち、言語は使えるかどうかが本質だとする考え方に従っていえば、「無意味」とは、「有用性がない」「使えない」ことを意味します。
 

そうだとすると、「司法試験情報局の提案はトートロジーだから無意味だ」という先ほどの批判は、どうやら「司法試験情報局のトートロジーには有用性がない(使えない)」という意味らしいのです。

どうしてここまで執拗にこの問題を追及しているかというと、私自身、このような批判が出る(出た)ことに心底驚いているからです。今まで何人もの仲間にこの「トートロジー」の発見を報告してきましたが、よほどのBAKA鈍い人以外は、この提案の革新的な(←ちょっと言い過ぎ)意義を理解してくれたからです。

 

たしかに、「上」に行けば行くほど大きな反応が返ってきて、「下」に行くにしたがって反応が鈍くなるという傾向は(いつものように)ありましたが、それでも三振した受験生でさえ、この提案(トートロジー)の意義はおおよそ理解してくれたように思います。

 

ともあれ、
 

「基本書を読んでも、基本書が読めるようになるだけ」 であるとか

「司法試験の問題が解けるようになりたいなら、司法試験の問題を解きなさい」 であるとか

「右足をヒョイと上げられるようになりたいなら、右足をヒョイと上げなさい」 であるとか

 

これらの「トートロジー」から(恐ろしいことに)1ミリグラムの意味(=有用性)も取り出すことができない受験生がネットの向こう側に大量に存在している、という事実が私を畏怖させたことは確かです。

だって、そういう人って、私の言葉を理解できないだけじゃなくて、なぜかセットで怒りだすんだもん 

 

今まで何度も書いてきたことですが、どんなにあたりまえの重大事(ex.「条文が大事」とか)でも、それを空気のように軽く扱う人は必ずいるし、一転ゴールドのように重い価値(有用性)を認める人もいます。

そして、あたりまえの事柄ほど、優秀な受験生とダメ受験生との間で決定的な差があらわれます

これも再三述べてきた通りです。ようするに今回もやっぱりまたそういうことであるようです…。


たとえば禅の公案(いわゆる禅問答)などは、このような「有用性」を引き出せる人間と引き出せない人間とをふるいにかけるための仕分け道具だったのでしょう。Xにとって驚愕するほど意味のある問いかけも、Yにとっては無意味なトートロジーやナンセンスにしか感じられない。このようなことは決して珍しいことではありません。どれだけ親切に表現しても、それを読み取れる人と読み取れない人は必ずでてきます。可哀そうですが、それはある程度仕方のないことです。

 

ともあれ、「司法試験の問題が解けるようになりたいなら、司法試験の問題を解きなさい」というトートロジーから何ひとつ意味(有用性)を読み取ることのできない受験生が相当の割合で受験界に存在しているというこの驚くべき事実は、逆に、この禅問答を読み解ける受験生にとってこの上ない福音となるはずです。どうかそのことを忘れないでください。こういう人がいてくれるからこそ、方法論は有効に機能するのですから。


長い補足になってしまいましたが、

 

「司法試験の問題を解けるようになりたければ、司法試験の問題を解きなさい」

「富士山を目指すなら、あなたから見た富士山を目指しなさい」

「右足をヒョイと上げられるようになりたいなら、右足をヒョイと上げなさい」

 

↑このような提案(=トートロジー)に、想像以上の重要性があることはお分かりいただけたでしょうか。


それとも、「これじゃ抽象論だけで具体論を言ってないじゃないか」と言いたい人がまだいるでしょうか。

でも、何度も述べてきたように、それは「人それぞれ」なのです。

 

あなたが鍛えなければならない内容、つまりは、あなたにとっての真に必要な「何」を、あなたではない私が具体的に「これですよ」と教えてあげることはできません。あなたに固有の具体的処方箋は、あなた自身が見つけるべきものであり、あなた自身にしか見つけることができないものだからです。

さらにさらに、(もうしつこすぎますが)私の言っていること(=司法試験情報局のトートロジー的主張)が、その人固有の具体論から逃げているわけでは全くないというその点だけは、最後にもう一度だけ確認しておきたいです。

 

右足をヒョイと上げることに纏わるその人固有の困難、右足をヒョイと上げるためにしなければならないその人固有の課題は、右足をヒョイと上げる行為それ自体によって解消されます。さらに踏み込んで言えば、右足をヒョイと上げる行為それ自体によってしか解消されない、とさえ言っていいです。

右足をヒョイと上げることそれ自体が、その人が右足をヒョイと上げる際の弱点を鍛えます。

 

もちろん、本当に必要を感じれば、ジムに行ってその必要な箇所を筋トレで鍛えても構いません。

しかし、その必要の自覚自体が、右足をヒョイと上げることによってしか生まれてこないものなのです。

 

このように、

 

右足をヒョイと上げるという抽象論の中には、あなたにとって必要な全ての具体論が含まれています

だからこそ、右足をヒョイと上げること(=司法試験の問題を解くこと)が、他のあらゆる方法よりも効果の高い練習(学習)だということになるのです。

抽象論を正しく経由すれば、その先には、必ず、あなたにとっての正しい具体論が待っています。

 

抽象論→(ならば)→あたりまえ、あたりまえ→(ならば)→無意味 ・・・ではないのです。

右足をヒョイと上げることは、十分に有意味で有用な行為なのです。








 

あなたがテニスをしたことがないとします。

 

完全な初心者であれば、普通はあまり上手くいかないはずです。

ラケットの握り方・振り方からして最初は違和感ありまくりだと思います。

サーブも入りませんし、レシーブに至ってはボールがどこに飛んでいくか保証の限りではありません。

コートの中を駆け回りながらラリーの応酬を繰り広げるなんて、夢のまた夢です。

 

テニスの初心者がテニスをするというのは、0歳の赤ちゃんがブロック遊びをするのと同じです。

頭と体(行動)が全く連動しません。完全に行動において不自由な状態です。

 

そんな中、3ヶ月後にテニスの大会があるとします。

 

1万人のエントリーがあり、うち2000人が合格です。

けっして少ない合格者数ではありません。

奇跡が起きなければ受からないという数ではありません。

 

しかし、この大会には、ある大変な条件が課せられています。

その条件とは、この大会で落ちたら、戦争に行かなければならない、というものです。

そこは、行ったら最後、9割は生きて帰って来られないと言われる、文字通りの地獄です。

こんなとき、あなたならどうするでしょう。

誰に言われなくても、ほとんど100%の人が、同じことをするはずです。

 

すなわち、テニスをして、テニスをして、テニスをする はずです。

 

間違いなくそうするはずです。

もちろん、自分の「テニス力」を最大化するために、道具に拘ったり、ビデオでフォームをチェックしたり、テニスの指導書を開くこともあるかもしれませんが、練習の9割以上はテニスに振り向けるはずです。

 

ここで、道具選びに時間をかけたり、可処分時間の半分以上をテニスの本を読むことに費やしたり、テニスの原型となったスポーツや数十年前のテニスを知ることも一定の意義があるんだとかいって、周辺領域にもどんどん関心を広げていく・・・なんて、ふざけた態度をとる人はいないでしょう。

 

3ヶ月の中でやるべきことは、その3ヶ月で自分の「テニス力」を最大化することです。

あなたのすべきことはそれだけだと思いますし、実際ほとんど100%の人はそうするはずです。

 

命がかけられ、3ヶ月という差し迫った期限が示されれば、どんな人でも、基本的には正しいことをする(せざるを得ない)ものだと思います。

 

ところが、話が司法試験のような、命の危険がなく、時間的な猶予も漠然としたものになってくると、その途端に、人々の意識は変わってしまいます。

 

本当は、命はかかっていなくても、人生はかかっているのに。

 

本当は、3年間で効果を最大化することは、3ヶ月で効果を最大化することと、ほとんどイコールなのに。

 

話が司法試験になった途端に、突然みんな余裕綽々な態度になってしまうのです。


司法試験に命がかかっているとしたら、あなたは何をしますか?

3ヶ月後に司法試験を受けなければならないとしたら、あなたは何をしますか?

このような条件が課せられているとき、それでもなお必要だと思うものこそが、あなたにとって本当に必要な勉強です。

 

そこから外れるものは、あなたにとって本当に必要な勉強ではありません。

このように、与えられた条件を極限まで切り詰めてみると、自分が本当にすべきことが見えてきます。
 

 

 

 

【補足】

 

このエントリーの趣旨は、今この時点で得点効率を最大化する勉強を最初から最後まで続ければいいということです。

 

得点効率を最大化する勉強とは、たとえば3ヶ月後に本試験が迫っているとしたときに、その本試験本番における合計得点を最大化させる勉強のことです。

 

今この時点で、今している勉強以上に得点効率の高い勉強が一つも存在しないような勉強のことです。

試験で点になる勉強の中でも、群を抜いて「点になる」勉強のことです。

内容がよく理解できていなくても、とにかく試験で1点でも多くの点が取れるようになる勉強のことです。

 

「3ヶ月」というのはフィーリングです。

 

得点効果の最大化のために今どういう勉強をしたらよいかは、その受験生のその時点での状況・レベルによってある程度は異なってきますが、だいたい3ヶ月先あたりから手段は変わらなくなってきます。

 

たとえば、ここに完全な初心者がいるとして、彼が30分後に司法試験を受けなければならないとしたら、(私がその人を指導していいなら)基本的な答案の書き方を5分で教えて、あとはひたすら六法の体系を教え込むことに費やすでしょう。もうそんなことくらいしかする時間がないからです。

 

ここで「試験対策は過去問分析が王道だから」といって、いきなり過去問分析をやらせるかというと、私ならしないと思います。

 

もし、試験まで丸1日あるなら、過去問は見せると思います。ただこの場合でも、問題演習を勉強の中心に据えるわけにはやはりいかないでしょう。1日しかなければ、得点を最大化する勉強は、やはりインプットメインにならざるを得ないでしょう。

 

そうやって、3日、1週間・・・と期限を延ばしていくと、ある時点から、それ以上どれだけ長い期限を提示されても、得点効率最大化の手段はほとんど変わらなくなるといえる期間が見えてきます。

 

私の感覚では、その期間がざっといえば3ヶ月なのです。

3ヶ月から先は、基本的に演習メインで行くことが最良の手段だと思います。

 

たとえば、先ほどの完全な初心者に、もし3ヶ月の猶予があれば、(私がプランニングするなら)1ヵ月を中村さんのインプット講座に充てて、あとの2ヵ月は基本的な方法論の解説と主要過去問のマスターに全て使い切るだろうと思います。

 

あと3ヶ月の初心者に、基本書を読ませたり、シケタイを加工させたり、百選や事例研究をちらっとでも見せるかというと、そんなふざけたことは絶対にしないでしょう。

 

このプランは、それ以上期間が延びても、内容はほとんど変わりません。

あと1年でも、あと3年でも、同じようなものです。

 

たとえば、試験まで3年あるからといって、丸1年かかる伊藤塾の基礎マスターを勧めるかというと、今の私なら絶対にしません。得点効率の最大化という観点からいえば、1年にもわたるインプット講座は端的に長すぎるからです。

 

インプットは、頑張れば1ヶ月で全科目を終了できるくらいのサイズが最も効率的で効果的です。

単に「効率的」であるばかりでなく、「効果的」でもあるという点を、自信をもって強調しておきます。

(このことは、当の伊藤塾(と私)が身をもって実証してくれています から間違いありません)

 

さらに、3年あっても、私なら基本書は読ませませんし、シケタイを加工させることもありません。

なぜなら、たった3年では、演習メインで行ったとしても、短答・論文の全過去問のマスターさえ実際にはできないからです。そんな段階で基本書やシケタイを読書させるのは、あまりにも勿体ないです。

(ほとんどの受験生には、5年でも普通に無理なんじゃないでしょうか)

 

 

【得点効率を最大化する勉強の一例】


ここで突然ですが、得点効率を最大化する勉強例を一つ紹介します。

これは数年前、私が民法の肢別本潰しをしていた際に、中村さん(@このときまだ受験生)に伝授された方法です。試験に強い人間はこんな風に考えるんだ、という一例としてお読みください。

私は当時、短答の過去問を解くことが嫌で嫌で仕方なかったので、差し当たり勉強しやすそうな肢別本に逃避していまいた。特に肢別本が短答対策に最適な教材だと考えているわけではありません。


では、まず1周目からです。ここが一番大事です。

普通の受験生は、この1周目にもの凄く時間がかかってしまいます。

 

しかし、中村さんは時間をかけさせません。

私が1周目を始めたばかりのときのことです。一肢一肢問題を解き、正解不正解を確認し、解説にマークをしていた私を中村さんは「キッ」と睨み、そしてこう言いました。

ドクロ 「NOAさん、だめですよ。左にある問題を全肢解いてから正誤をチェックしてください」

 

かお 「わかりました・・・」

 

左ページの肢を全部解く。中村さんの言うように時間を計って解く

そうすると、ずいぶん早く終わる。終わったら正誤チェック。意外と(半分以上)正解している。

○or×の5割問題なんだから当たり前だけどね・・・と思いながら解説にマークをしようとすると…

 

ドクロ 「うわっ、何やってるんですか。その肢、正解してるじゃないですか。なんで正解した肢の解説見てるんですかっ!

 

かお 「・・・・?」

ドクロ 「法律問題は人の常識感覚で答えを出せるんですよ。その肢はNOAさんの常識感覚に照らして○だと思って○だった。ってことは、NOAさんがNOAさん自身の常識感覚に基づいて判断する限り、その肢は今後も正解する可能性が高いんです。本試験でその肢が出ても、“今のNOAさん”で正解できちゃうんです。そんな肢を勉強してどうすんですか。その肢は最高レベルの後回しです。解説は見ないでいいです」

かお 「・・・じゃ、次のページ っと」

 

ドクロ 「いやいや、間違えた肢の解説は読むんですよ。その肢はNOAさんの感覚に照らして○だと思ったのに×だった。ってことは、NOAさんは今後もその肢を間違える可能性が高いということです。高いというより、現時点で既に間違えているわけですから、仮に次の機会にまぐれで正解したとしても、その肢がNOAさんにとって“あやしい肢”であることに変わりはない。その肢は“あやしさ度100%”ということです。それはどういうことか分かりますか?それは、その肢を潰すことは、今のNOAさんにとって100%効果のある勉強だということです」

 

「ちなみに、試験は満点を取らなくても受かるんです。ほとんどの受験生が全分野くまなく100%の準備をして試験に臨もうとしますけど、そしてその結果、7割なら7割できればいいという感じで構えてますけど、本当はそんな必要ないかもしれないんです。仮に民法が1/4取れれば合格するなら、極端な話、総則だけ完璧にするっていう考え方だってあるんです。物権以降は全く知らない・・みたいな。

それで受かるならいいんですよ。試験なんだから。でも、ほとんどの受験生は、試験で点を取るための勉強とは全く別の勉強を、同時進行で追及してるんです。それは、試験範囲として指定された部分は全部ちゃんと押さえておかなければならないという真面目な思い込みからでてくる勉強です。試験勉強にはこちらの勉強も必要だと思ってるんです。でも、本当は後者は要らないんです。合格点さえ取ればいいんですから。合格点を取ること、合格点に一歩でも近づくことが“試験勉強”なんです。だから、正しい試験勉強をしてるかどうかは、合格点に一番大きく近づく勉強(得点効率を最大化する勉強)を常にやってるかどうか、それだけなんです」

 

得点効率を最大化する勉強を見つける方法は一つしかありません。それは問題を解いて間違えることです。自分が間違える問題を見つけて、その間違えた問題を次に間違えないようにすることです。これ、純度100%の勉強ですよ。この純度100だけやってればいいんです」

 

 

かお 「でも、そういう風に激しく濃淡をつけて、正解した問題は無視!みたいにやってたら、その正解した問題の中に実は理解不足や取りこぼしがあって、そこを突いた問題が出ちゃったらどうするんですか」

 

 

ドクロ 「純度100%の勉強を本試験までやり続けて、それでも間に合わなかった問題が本試験で出ちゃったら、それは間違えるしかないですよね。間に合わなかったんだから。それとも純度100の勉強を犠牲にして純度30くらいの勉強を網羅的にやります?得点低くなるけどいいですか?試験は満点取らなくても受かりますけど」

 

かお 「んん~たしかにそうなんだけど、なんだろう・・・そういう勉強って、なんか強烈に気持ち悪い感じがしますよね。痒いところを掻かないで放っておくような感じの気持ち悪さ。でも、ほとんどの受験生はそうやって試験で点を取るための勉強よりも、痒いところを掻いて気持ちよくなる勉強をしてるんだってことは分かりました。私も完全にそっちでしたね。勉強って、もっとちゃんとやるものだって思ってました。試験って、全ての分野をちゃんとくまなく理解した上で受けるものだと思ってました」

 

ドクロ 「やっと分かってもらえました?」

 

かお 「なんか、もっといいこと、インパクトのあること言ってください」

 

ドクロ 「う~ん・・・・・たとえば、試験問題に正解するのに“理解”してる必要はないですよね。理解してなくても正解はできますよね。理解してる奴より正解した奴のほうが偉いのが試験なんです」

 

かお 「うわ、ほんとだ・・(メモメモ・・)」

 

 

(休憩タイム)

 

 

かお 「ところで、2周目以降はどうすればいいんですか?」

 

ドクロ 「2周目以降は、1周目で間違えた問題だけを回してください」

 

かお 「えっ!3周目も4周目も、1周目に間違えた問題だけをやるんですか?」

 

ドクロ 「そうです。間違えた問題だけです。まだ分かってないですね。1周目に間違えた肢は、NOAさんにとって“あやしさ度100%”なんですよ。それを完全に潰すことは、NOAさんにとって純度100%の勉強なんですよ。その純度100%を差し置いて他に何をやるんですか」

 

かお 「でも、正解してた肢も、偶然合ってただけかもしれないし・・・」

 

ドクロ 「法律問題は常識感覚・リーガルマインドを鍛える場なんです。NOAさんはあんまり勉強してないから知識ないですよね。でも、それは法律問題を解くのに最高の条件なんです。司法試験は最終的に自分の中にあるリーガルマインドを鍛えなければ合格できないのはご存知ですよね。でも、知識がある人は、ある問題が合っていた場合に、それを知識として知っていたから正解したのか、自分のリーガルマインドが正しかったから正解したのか判別ができないんです。もし、知識で正解しただけなら、その人は同じ価値基準で作られた別の問題では、普通に間違っちゃうと思いますよ。司法試験では全く同じ問題はほぼ出ませんから、そうなっちゃうのは本当はもの凄く怖いことなんです」

 

「ここでもし、幸運にも知識がなければ、その人は問題を解いて間違えることで自分のリーガルマインドの歪みに気づいて、それを修正する機会を得るわけです。けれど、なまじ知識があると、それだけで歪みに気づけなくなります。つまり、司法試験では、知識を付ければ付けるほど、肝心のリーガルマインドが鍛えられなってしまうんです。実力者は、どんな問題を解いても全部知識という外側の鎧の部分で解いちゃうので、リーガルマインドという内側の価値判断は使わなくなってしまう。このように、知識は付ければ付けるほど問題を解くのに役立ってしまうが故に、その人のリーガルマインド修正の機会を失わせるんです。NOAさんは知識がない状態で肢別本を始めて、結構な数を正解してるんだから、その常識感覚にはもっと自信を持っていいんですよ。いずれにしても純度100以外は後回しですけど」

 

かお 「じゃあ、純度100%の問題がなくなちゃったらどうするんですか?つまり1周目に間違えた肢を完璧にしたら、もう“あやしさ度100%”の問題はなくなっちゃいますよね」

 

ドクロ 「そしたらいよいよ1周目で正解した肢をもう一度解いてください。そこで間違えた肢があったら、今度はそいつを叩き潰すんです。問題を解く効用には2つあって、ひとつは問題を解く感覚を鍛えられること。もうひとつは自分ができない問題が見つかることです。問題を解くことで自分のできない部分を見つけて、得点効率を最大化する純度100%の勉強をするんです」

 

 

(おわり)



私の肢別本(民法)潰しの成果を報告すると、まず、1周目にかかった日数は4~5日でした。

正解した肢の解説を読んでないのだから当然です。でも、それまで何度もチャレンジしながら総則さえ終わらずに投げ出していた肢別本を、こんな短期間でひと回しできたというだけで、私には驚きでした。

 

正答率ですが、1周目が終わった時点で友人にランダムに「達成度チェック」をしてもらった結果から推測すると、1周目終了時点で、既に95%以上正答できる状態になっていたと思います(実は、ランダムチェックでは一問も間違えていません・・)。

 

1周目で不正解だった肢については、4~5日前までに一度見た(しかも解説まで読んだ)肢ですから、どの肢も明らかに見覚えがあって、再度は間違えようがない感じでした。

 

1周目で正解だった肢についても、中村さんが言うように、私は常識感覚だけで○×を付けていたので、その感覚に従って再度○×を言えばいいだけでした。なので、これもまた間違いようがない感じでした。

また、不正解の肢と同じく、4~5日前までに一度見た肢ですから、ほとんどの肢について、「あぁそれは正解した肢だなぁ」という記憶も残っていました。

2周目は2日くらいしかかかりませんでした。それ以降、どんどん時間は短縮されていきました。

時間の短縮とともに正答率も上がってきて・・・と本当は言いたいところですが、単なる正答率だけの話なら、正直に告白すれば、1周目終了時点でほぼ100%だったかもしれません。

自分ができたこと(正解)とできなかったこと(不正解)を明確に仕分けることが、こんなにも人間の頭脳を自覚的にするとは、正直思いもしませんでした(もちろん、私は全然頭のいい人間ではないです)。

皆さんもほんと真似してください。。


ここで一点だけ、忘れないで欲しいことがあります。

それは、ここに書いたことは、あくまでも肢別本潰しの方法論だということです。

 

もちろん、短答過去問潰しにも論文試験対策にも、十分に応用可能な方法ではあると思いますが、私の意図に反して、ここに書いた方法を効率的に物を覚える方法と受け取った方がいるとすれば、それははっきり誤読であると申し上げておきます。たしかに、この方法で問題集を潰せば効率的にその内容を覚えることができると思いますが、そういう単純暗記の勉強法は司法試験ではおすすめできません。

 

当ブログの記事に対して、様々な受験生が様々な反応をしてきますが、その中に、インプット系の方法論ばかりに食いついてくる受験生が数多くいることに、ブログをやっている途中で気づきました。

具体的にいうと、桜蔭の女の子がそうです。本音をいえば、私の書いた多くの記事の中で、この記事は特に水準の高いものではありません。方法論として非常に単細胞であり、その効果も限定的です。特に、強い目的意識に裏づけられていない点が最も致命的です。

 

しかし、このような単細胞な方法論に対して、極端な人になると、司法試験情報局で価値のある記事は「桜蔭の女の子」だけで、あとは価値がない記事だ…と言いだす人まで出てくる始末です。

こういうのは非常に良くありません。このような単細胞な方法論にしか価値を見出せないのは、その人の頭が単細胞だからです。易しい試験(覚えれば済む試験)ならそれでもいいですが、司法試験などの難度の高い試験(覚えるだけでは済まない試験)になると、それでは全く対応ができません。

 

今回の方法論は、暗記・理解の危険性を強調したものとして、正しく受け取っていただきたいです。

もちろん、そうやって正しく学習すれば、結果として、素早く効率的に内容を覚えてしまうことにもなるでしょう。しかし、そのことはあくまでも結果の問題であり、今回のレクチャーの本旨ではありません。

 

最初から最後まで、大切なのは目的意識です。

したがって当然のことですが、目的に定位して有効だと思えば、今回のレクチャーとは方向性が全く違う方法、たとえば「全てを覚え倒す」ような方法を採っても構いません。目的に定位してそれが最善の方法だと思えばそうしてよいし、むしろ、そうしなければならない場合さえあるでしょう。

 

ようするに、私が言いたいのは、その目的が何なのかが決まる前に、手段が先に決まっているのはおかしいでしょうということです。どうかこの点を忘れないようにしてください。

 

件の桜蔭の女の子も、きっと「大学入試」の「センター試験」の「世界史」だったから、あのような方法を採用したはずです。言いかえれば、試験や科目が変われば、当然、別の方法を採ったはずです。

 

このように、目的との関係で常に柔軟に対応を変えられることこそが、試験に強い受験生になるための必須の条件なのです。

 

 

 

【いつか得点効率を最大化する勉強をするための勉強】

 

3ヶ月の期限の話に戻ると、ほとんどの受験生が、

 

今この時点で得点効率を最大化する勉強を放棄して、いつか得点効率を最大化する勉強をするための勉強 ばかりをしている気がします。

「いつか得点効率を最大化する勉強をするための勉強」とは、

 

いつか始める予定の過去問演習や答練のために、今は一生懸命に基本書を読む勉強

いつか全体を総ざらいするために、今はせっせとシケタイの加工をする勉強

 

こういった勉強のことです。

 

彼・彼女たちの心の中は、きっとこんな感じ↓です。

 

今やっている勉強で3ヶ月後に試験が来てしまうのは、たしかに非常に困る(←分かってんじゃん)。

だけど、実際の本試験は3ヶ月後じゃない。よって、計画は長期的に考えてよい(←おいおい)。

私の勉強(←作業でしょ)を非効率と馬鹿にする人がいるけど、今に見てらっしゃい(←何を?)。

きっといつか、私の基本書・シケタイは、最強の武器になってるんだから(←「いつか」っていつだよ)。

きっといつか、この最強の武器で過去問が解けるようになってるんだから(←いいから過去問解けよ)。

 

…と、こんな風に、今の自分が楽をするために、将来の自分に全責任(負担)をなすりつけるのです。

もちろん本人は、「将来楽をするために、いま苦労をしている」つもりでいるのでしょう。

けれど実際は、「将来の苦労から逃げるために、いま楽をしている」だけです。

それが、彼・彼女の真(まこと)の心の内なのです。

彼・彼女は、ようするに、いま痒いところを掻いて気持ちよくなっているだけです。

そうやって気持ちよくなることで、本当に考えなければならないことから目を逸らしているのです。

気持ちのよい勉強とは、一言でいえば“分かる”勉強です。

分からないことが気持ち悪くて不快なので、それを一つずつ消していくと、気持ち悪さや不快感がひとまず消えます。この効果は人に大きな快感をもたらします。それは決して得点力を上げる効果ではありませんが、そこには何かしらの麻薬のような効果が、確かに発生します。

この効果の魔力は、想像以上に怖いものです。

全ての勉強には(目的との関係を問わなければ)必ず何かしらの効果が発生します

 

・よく理解した感じ(腑に落ちた感じ)がしたとき

・1日10時間勉強して充実感に浸っているとき

・思いがけず先生や友人に褒められたとき

・(合格者などから)自分だけの特別な耳寄り情報を手にしたとき

 

こういったものも全て、気持ちの良い「効果」です。

 

このときに得た自分固有の「効果」を、人は必要以上に過大評価する傾向があります

人はみな、自分がした経験を特別なものだと思いたいからです。

 

この「効果」の発生によって、受験生の心に一種のすり替えが起こります。

「私の心の奥の実感がこの効果は本物だと言っている」(←たしかに効果自体は本物です)と思うときのその「実感」は、非常に強烈で心地よいものです。その勉強が単に「分かる」だけでなく「点になる」効果をもたらすに違いないと「実感」しないではいられなくなります。

 

こうして、その受験生の目的は、晴れて「点になる」ことから「分かる」ことへとすり替えられます。

 

もっとも、その実感はしょせん個人的な思い込みにすぎないので、そしておそらく本人もその事実に薄々は気づいているので、試験の客観的事実や目的そのものを再認識させようとすると、その人は自らの欺瞞を暴かれまいと大抵は激しく抵抗し、最後には怒りだします。

 

よほど目的意識の強い受験生でなければ、ここで発生した「効果」が、当初の目的とは関係のない効果であることに気づくことができません。なぜなら、彼らも彼らなりにその「効果」を正当化するためのゴマカシの論理を用意しているからです。

 

その論理とは、「点になる」ことをするためには「分かる」を経由しなければならないという論理です。

たしかに「分かる」だけでは試験には受からないのかもしれないけれど、それは「点になる」ための前提条件として必ず必要となる、という論理です。いわば「分かる」ことを壁に見立てた間接シュートの論理とでも言うべきものです。つまり、「分かる」という壁に向かってボールを蹴れば、その壁に当たってボールはゴールに入るはずだ(入りやすくなるはずだ)という論理です。


この「論理」の欠点はいくらでも指摘できます。

 

まずそもそも、ボールはゴールへ向かって直接蹴り込んでいいのです。

なんでわざわざ壁を経由させなければならないのでしょうか。直接ゴールを狙ってはいけないルールはどこにもありません。直接ゴールを狙ったほうが簡単ですし、ゴールの位置を見間違うこともありません。

 

さらに、この間接ショートの論理最大の欠点は、【得点効率を最大化する勉強の一例】の青字部分で指摘した、暗記・理解の危険性です。

 

こと司法試験において、先に覚えてしまうこと(理解してしまうこと)は、その人のリーガルマインドという伸びしろを決定的に失わせる虞の強い危険な行為です。この点は致命的です。


しかし、ここまで言っても彼・彼女らが自分の考えを改めることはありません。

その理由はすでに指摘したように、「分かる」という快感が受験生の心を麻痺(逃避)させるからです。

 

そしてもう一つ、ゴールを見ること、ゴールに向かってボールを蹴り込むことへの恐怖です。

たしかに誰にとってもゴールを見ることは恐怖です。ついつい、武器をたくさん買い揃えてから、鎧で武装してから敵(ゴール)に立ち向かいたくなります(何度も言いますがそれをするとアウトです)。この敵(ゴール)への恐怖が、彼・彼女らに更なる麻薬を必要とさせるのです。麻薬を吸っている間は、敵(ゴール)のことは忘れられるからです。

彼・彼女らは、「分かる」という名の快感の奴隷です。

本当は「点になる」勉強をしなければならなかったはずなのに、そのために始めた司法試験だったのに、いつの間にかそんなことは忘れて(忘れたふりをして)、今日も「分かる」という麻薬を吸い続ける・・・。

いつの日か自分も麻薬依存から脱して「点になる」勉強をするつもりだけど、それは「今」じゃなくてもいいよね、と・・・(←今でしょ)。

 

結局、その後(たとえば1年後)、彼らはどうなっているのでしょう。

 

実は、彼らの大部分は、1年後も、「いつか得点効率を最大化する勉強をするための勉強」をしているのです。そうやって、永遠に到達することのない「いつか」に向かって、永遠の順延を繰り返すのです。

 

私が「3ヶ月」と直観的に書いたのは、方法論的な観点からだけでなく、人間が自分の行動に誤魔化しなく責任が持てるのは、せいぜい3ヶ月後くらいまでということがあったかもしれません。

実際、1年も後のことなんて、人間にとってほとんど妄想でしかありません。

「1年後のため」と称して、たとえばシケタイをせっせと加工している受験生がいますが、彼らはこの妄想を利用して目的から逃げているのです。「1年」という期間は、それくらい人を無責任にします。

 

現実に試験に向き合って、試験問題を間違えて、それをどうにかしなければならないと真剣に思ったら、どんな時期であれ、普通シケタイなんて読んでいられないはずです

真剣に問題に向き合ったら、「これを解けるようにならないといけないのかぁぁぁ~」「やばいぃぃぃ~」と普通は焦るはずなのです。

 

あるいは、矛盾するようですが、「うわ、本試験問題って、意外と解けちゃう」「シケタイなんか経由しなくても解けちゃうじゃん」「えーっ、解けたら合格じゃん」「もう解けるようにしちゃおっ」と調子に乗ってきちゃうはずなのです。

真剣に問題に向き合えば、分かる」ことと「問題が解ける」ことが、思った以上に関係がないという事実に気づくはずです。あるいは、同じことですが、分からなくても(分からないまま)問題が解けてしまうという事実に気づくはずです。そうなればもう一人前です。


あなた自身に誤魔化しなく問うてみてください。

もし、3ヶ月後に、人生一度きりの、一発勝負の司法試験を受けなければならない状況に置かれたら、あなたはそれでも基本書を読みますか。シケタイを読みますか。百選を広げますか。

 

この問いを「1年後」にしてはダメです。

「3ヶ月」という切迫した期間を想定することが大切なのです。

 

 

 

 

 

 

1日平均3時間未満しか勉強しない人。

 

憲法の4人組を基本書にしている人。

 

3段階審査論を使わないと司法試験に合格することができないと思っている人。

 

高橋重点講義を読まないと司法試験に合格することができないと思っている人。

 

基本書を各科目3冊以上通読したことがある人。

 

判例百選を5色以上に塗り分けている人。

 

すぐに教材を浮気する人。

 

ロースクールの予習・復習に勉強時間のほとんどを費やしている人。

ロースクールの教授の有難いお言葉は、しかし建前かもしれないという可能性に思い至らない人。

 

旧司は論証貼付けで合格できる問題のある試験だった、とマジで信じている人(旧司舐めすぎ)。

 

「旧司=論証貼付け」etc…の、数々の「ロースクールプロパガンダ」にホイホイ乗せられる人。

 

自分で裏を取らず、伝聞や印象論でものを言う人。

 

試験なんだから暗記も大事に決まってんじゃん、という当たり前のことが理解できない人。

 

司法試験に最も必要なのは「深い理解」だ、みたいな漠然とした理解の仕方を好む人。

 

「肢別本なんかやっても全然足りないよ」と嘯いたことがある人。

 

問題を解くのを嫌がる人。

 

判例集・演習書が大好きな人。

 

条文を軽視する人。

 

素直じゃない人。

 

自分の頭の悪さに気づいていない人。

自分が受からないのはあてはめが苦手だからだ、と思い込んでいる人。

 

予備校本を買おうとしている友人を止めたことがある人。

 

テキストにも問題集にも載っていない、新たな疑問点ばかりに関心が向かう人。

 

楽をしようとしない人。

 

楽をしようとしすぎる人。

 

ロースクールに行けば何とかしてもらえる、と未だに思っている人。

 

ロースクールを嫌うあまり、ロースクールと折り合いがつけられなくなってしまった人。

ロースクールで恋愛にはまる男。

 

飲み会が大好きな女。

 

試験情報や方法論に詳しい友人とは正直あまり話をしたくない、と思っている人。

 

友人に「受かる自信ある?」と聞かれて、「ある」と即答できない人。

 

予備校講師の言うとおりにやれば合格できる、と素朴に信じている人。

 

予備校は知識を丸暗記させるところだ、と素朴に信じている人。

 

試験まで3ヶ月を切った段階で、新しい講座・教材に手を出す人。

 

ロースクール入学時点で、司法試験の問題を見たことがなかった人。

 

いつか本気で勉強するときのための準備をするための勉強をしている人。

「司法試験に楽な道はない」と、キメ顔で言う人。

 

「結局は努力だよ」と、キメ顔で言う人。

 

人の発言を判断する際に、内容よりもその人の属性が気になって仕方がない人。

 

新司と旧司・予備がずいぶん違う試験だと未だに信じている人。

 

「失権したらどうする?」という話題で不安を慰め合っている人。

 

司法試験に受からなかったら大変なことになる、という現実を直視しようとしない人。

 

司法試験に受からなくてもあんまり困らない人。

 

「自分の頭で考えろ」というステレオタイプなフレーズで思考停止する人。

1日10時間以上勉強する人を馬鹿にする人。

5ちゃんねるからのリンクでこのページを見てしまった人。

これを読んで、だんだんイラついてきた  あ ・ な ・ た ラブラブ

 




















 



 

 

 

 

 

 

 

 


 

 

 

 

 

 

 

 








 

…ちなみに、こういうのにいちいち反応せずにいられない人は、ほんとに見込みがないと思います。
 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

海馬に必要だと認めてもらうには、できるだけ情熱を込めて、ひたすら誠実に何度も何度も繰り返し繰り返し、情報を送り続けるしかないのです。そうすると海馬は、「そんなにしつこくやって来るのだから必要な情報に違いない」と勘違いして、ついに大脳皮質にそれを送り込むのです。

 

古来、「学習とは何か」に対して、「学習とは繰り返しである」と言われてきたのは、脳科学の立場からもまったくその通りだと言えます。

 

池谷裕二 『最新脳科学が教える高校生の勉強法』

 

 

 

われわれは、日常言語を用いるとき、基礎をさほど厳密に知っているわけではない。意味をよく知らずに使っていることばは、多い。しかし、どのような場合に使えばよいかという「使い方」は知っている。

 

「基礎的な」知識がなくとも、使うことはできるのである。

 

野口悠紀雄 『「超」勉強法』

 

 

 

参考書や本を目の前に山積みにするのは止めたほうがいい。どうせ人間が一度に読める本は1冊だ。何冊もの本を広げても、1冊しか読めないのだ。気が散るだけなので、どうしても必要なモノ以外は視界の外に追いやっておきたい。

 

内藤誼人 『暗示で500%能力を引き出す勉強法』

 

 

 

参考書、いわゆる教科書とか基本書とか言われるものの扱いだが、これはいっさい読まなくていい試験によく出る問題は基本書、教科書の全体の2~3割。残りの7~8割はほとんど出ない。だからこそ基本書、教科書は読まなくていいと言っているのだ。

 

仮にやっていないところが出ても、スパッとあきらめればいい。それで試験に受からなくても人生が終わるわけではない

 

いちばん心がけてほしいことを話しておく。それは、“何度も何度も繰り返す”ということだ。わかっているとついその部分は飛ばして新しいところをやろうとするが、それを我慢してわかっていても繰り返すことを日々の勉強の基本にしてもらいたい。

 

ストレートに対応する基本的なフォームを固めれば、その他の変化球にも対応できるようになるが、その逆をやろうとするとフォームが崩れ、すべてが打てなくなってしまう。ではなぜ、変化球を打とうとするかといえば、すべての球を打ちたいからだ。その欲求にかられて打率10割を目指してしまうのである。

 

プロ野球で一流選手と呼ばれる人は、3割打者でいい。プロ野球選手ならあとの7割は三振してもいいという考え方、資格試験なら3割は捨ててもいいという考え方。それを持てるかどうかで合否の分かれ目、一流か二流かが決まってしまうのだ。

 

福田大助 『難関資格 合格したけりゃ本は読むな』

 

 

 

短時間に、さっと本をひらいて読むだけ、というのが僕の勉強法です。もちろん、1回読んだだけで10ページ分の知識がまるまる頭に入るわけはありません。でも、知識を記憶するには、どのみち何度も繰り返すことが必要です。だから、ぜんぜん頭に入らなくても、半分くらいしか理解できなくても、まずはともかく10ページ目を通す。それをやっておけば、次に読むときには確実に理解が深まるし、知識も定着します。まずは、ユルユルでもお気軽でも構わないから、とことん「勉強」のハードルを下げることで、実行しやすくなるのです。

 

テキストを読んでいく上で、大切なことがひとつあります。それは、「理解しよう」とか「覚えよう」とかと、思いつめないこと。真剣に1回よりも、いい加減でもいいから繰り返し、のほうが知識は頭に入りやすいのです。ですから、教科書を読むうえでも、繰り返す機会をつくることが何よりも大事。そのためには、気軽に教科書をひらき、短時間に何度も目を通すようにすること。

 

喫茶店やカフェに入ると、熱心にテキストを読みながら蛍光ペンでマークしている方を見かけたりします。でも、現在では「本当に線を引く必要があるの?」と疑問に思っています。線を引くという習慣をつけることで、勉強のハードルをひとつ増やしてしまっているできるかぎり「勉強」のハードルを下げて、いつでもどこでも実行できるようにする、という僕の方針だと、ペンを捨ててしまうのが正しいのです。

 

早く受かる人は、早い段階で過去問を解いてみている。勉強をはじめたばかりの段階で、過去問を解いてみる理由は、「無駄な勉強をしないため」です。以後は教科書の読み方からして変わってきます。

 

本村健太郎 『本村弁護士流 読むだけで賢くなる勉強法』

 

 

 

やりたくないこと、やるのがイヤなことはやるべきではない。なぜ、やりたくないことをやってはいけないのか。それは、あなたがやりたくないことというのは、誰かが自分の都合のために(例えばあなたを奴隷化するために)、あなたに無理やりやらせようとしている可能性が極めて高いから。

 

苫米地英人 『脳にいい勉強法』

 

 

 

調子が悪い?バカ言え。大体、ストレスがたまっているのはまともに勉強してないからだ。だいたい昔から、悩んでいるやつの10人に9人は勉強していない

 

安河内哲也 『受かる人の勉強法作戦』

 

 

 

背伸びして難しい本と向き合いながら正攻法の勉強をし続ける人や、学校の先生に言われるままそれほど深く分かってもいないのに、きちんと教科書を読む人は、残念ながら試験に落ちる。反対に、何でもわからないことはすぐ人に聞き、黙っていても分かりやすい予備校の講義を探してこられる人、分かりやすい問題集を探してこられる人が試験に受かる。試験とはそういうものだし、またそんな風にできているのだ。

 

入力情報を絞れる人が試験に強く、絞りきれない人が試験に落ちるのだ。

 

和田秀樹 『試験に受かる人落ちる人』

 

 

 

記憶のあとに、理解は必ずついてくるのよ」

 

理解というのは、結局は【記憶同士の連絡通路】。うまく記憶同士が結びつきあって、もとからあった知識と連絡が取れたとき、それは【理解】になります。道(理解)がどんなに立派にできても、その先の城(記憶)が曖昧だと意味がありません。その先に城がないような道は、誰も使わないもの。その結果、道もどんどんさびれていってしまうでしょう。逆に、「まずは記憶してしまう」というのは、とにかく道よりも先に脳の中にいくつも城を作ってしまう作業。

たとえ道がなくても、その城を何度も使っていれば、自然に道ができてきます。馬が何度も通っているうちに、そこが道になってくるようなものですね。確固たる記憶を何度も繰り返し使っていれば、自然と「理解」もできてくるものなのです。

 

ゆうきゆう 『ゆうき式 逆転発想勉強術』

 

 

 

この本は何分で読み切るかを、読む前に決める

「こういうことを勉強しようと思うけど、どの本がいいですか」と聞かれる。「この1冊がいいよ」とすすめる。にもかかわらず、「それだけで足りますか」と質問する人がいます。この人は、本当は勉強したくないのです。「それだけで足りますか」と言う前に、やってみればいいのです。足りるか足りないかを考えて立ち止まってはいけません。100冊やっても足りないし、1冊でも、やったほうが勝ちなのです。

 

量か質かという議論をする以前に、勉強はスピードが大事です。スピードということは量なのです。量を増やすことによって、質は必然的に上がっていきます。最初から質を上げようとすると、スピードは必ず落ちます。わかっていることが1で、9個わからなくても、先へ進むことです。

 

書くときに、きれいな文字で書こうとする人がいます。これではスピードが落ちます。メモを取るときは、消しゴムを使ってはいけません。自分は消しゴムは使わないと決めれば、間違いは二重線で消してもいい。「消しゴムを使っていい」というルールにすると、できるだけ消しゴムを使いたくないという気持ちが起こって、書くスピードがどんどん落ちます。スピードを上げるためには、消しゴムを使わないという覚悟を持つことです。

 

中谷彰宏 『大人のスピード勉強法』

 

 

 

1分話すだけで、その人がどれだけ勉強しているか、はっきりわかります。勉強していなければ、バレます。でも、「あなた、勉強していないよね」とは言われないのです。

 

電車に乗っても、「一生懸命勉強している人」と「勉強していない人」がいます。スターバックスに行っても、2通りの人に分かれます。その中で、何か資格を取ろうと思って勉強している人、英語の勉強をしている人、会社の仕事の勉強をしている人、仕事以外の勉強をしている人がいます。一方、その隣でグチ・悪口・ウワサ話を延々としている人がいます。 その人に悪気はありません。ただし、2人の住んでいる世界はまったく違います。 その2つの世界は交わりません勉強する人と勉強しない人とは、くっきり分かれた世界の中にいるのです。

 

エレベーターの前やスターバックスで待っている間に、鏡を出して見るか、本を出して見るかで差がつきます。ヒマがあればケータイを出して見ている人もいます。そんな時間があったら、本を読むほうがはるかにいいのです。少しのヒマがある時に、本を出す人とケータイや鏡を見る人とで差がつくのです。

 

「目的のある勉強」と「目的のない勉強」とがあります。私にとっては、「目的のない勉強」のほうが大切です。

 

子供の勉強には、必ず目的があります。いい学校に入るため、いい会社に入るため、いい結婚をするため、いい子供を産むため、いい子供にいい学校に行かせるため、というふうに、常に目的の中でグルグル循環しています。

 

「目的を持ちなさい」とか、「夢を持ちなさい」というアドバイスがあります。でも、それは本当かなと思います。私には、目的があまりありません。「夢を持ちなさい」「目的を持ちなさい」というアドバイスは、成功するために必要です。でも、実はそれは中くらいの成功のためのアドバイスです。

目的を持ってやっている人は、好きでやっている人にかなわないのです。

 

中谷彰宏 『「超一流」の勉強法』