ひろせカウンセリング若手ブログ -2ページ目

ひろせカウンセリング若手ブログ

吃音自助グループ廣瀬カウンセリング東京教室の、若手メンバーによるブログです。

こんばんは。しばらくブログを書いてなかったので久方ぶりの投稿です。

 

今月の教室の後の飲み会で、「小成は大成を妨げる」という言葉を紹介しました。

せっかくなので、これについて少し書いてみたいと思います。

 

この言葉の意味は、読んで字のごとく小さな成功は大きな成功を妨げるというものです。

 

吃音にあてはめると、随伴運動とか言い換えを使ったりすることで中途半端に適応できてしまうと、それでなんとか間に合ってしまう(小成する)ので、吃音と根本的なところから向き合ったり克服したりするまでに至らない(大成しない)というのが、一例として挙げられます。

 

かつての私は吃音の症状がそれなりに重く、随伴運動や言い換えでなんとかなるレベルではありませんでした。

特に難発が酷くて、どうやってもいつまでも言葉が出てこず、大学院のゼミでの発表が途中で中止になったこともあります。

 

それで、社会に出たり生活するためには直すしか選択肢がないというところまで追い込まれた結果として、この教室に来ました。

そして、現在では心理的にも症状的にもほぼ問題にならなくなっています。

 

私がもし随伴運動や言い換えでごまかせるレベルの吃音だったら、それで就活や仕事の場を乗り切ってしまい、今でも吃音のままでいたでしょうし、もっと年をとっても吃音のままでいたかもしれません。

そして吃音の悩みもそのままであったでしょう。

 

こういうふうに見ていくと、私は小成が得られなかったことによって大成を得ることができた、ともいえます。

吃音の症状が重い、というのは不幸なことですが、それによって小成を回避することができ大成に至ることができた、と考えるとむしろ幸運であったといえるかもしれません。

こうなると、吃音の症状が軽い方が「まし」であるという普通の見方が崩れてきます。

 

こんなふうに、ものごとを小成と大成とに分けて考えると、いろいろなことが見えてきます。

小成に安住しないためには、自分がいま小成と大成のどちらにいるか省みてみることが大事かもしれませんね。

 

ところで心理学でもこれと同じような概念があって、それは「補償」といいます。

よく例に挙げられるのは、サーカスの曲芸士には幼少期に運動神経が悪かった人が多いというもので、彼らは自らの劣等感コンプレックスを克服するために努力して、人並み以上の運動能力を得るに至ったというのです。

幼少期に人並みに運動ができるという小成を得ていたら、サーカスの曲芸士として脚光を浴びるという大成は得られなかったという訳ですね。

 

こんなふうにマイナスに見える要素も使い方によってはプラスに転じるための「てこ」になり得ます。

あらゆるものに対する見方を決めつけてしまわないで、常に柔軟でいることが大事です。

こんばんは。2018年になりました。本年もよろしくお願いいたします。

 

昨日は1月教室がありました。その後の復習会での出来事で思い出したことがあったので、書いておきます。

 

たしか、修了生のWさんから、私は普段の生活でどんな取り組みをしていた(いる)のか、ということを聞かれました。

 

それで、どんな努力や頑張りが必要なのかということで、義務やノルマや苦行的なものではなく、子供の頃に夢中になって遊んだような、自分から進んでやるような努力が望ましい、というような話をしました。

 

これは教室で使っているテキストに出てくる「評価も課題も課さない」と同じことです、というような話もしたと思います。

 

話しながら、何かどこかで見たような聞いたような、デジャヴのようなものを感じながら話していました。

帰宅後に思い出したのですが、私の話したことは鈴木大拙の本が元ネタでした。

 

人生は芸術である。そして完全の芸術のように、それは自己没却でなければならない。そこには一点努力の跡、あるいは労苦の感情があってはならぬのである。禅は鳥が空を飛び、魚が水に游ぐように生活されねばならない。努力の跡が現わるるや否や、人は直ちに自由の存在を失う。彼はその本然の生活を営んでいないのである。彼は境遇の圧迫を受けている。何者かの制圧を感じている。そしてついに自分の独立を失うに至るのである。

鈴木大拙『禅学入門』講談社学術文庫、p.68-69

 

頑張るとか、努力をするというのを、なにか辛いことに耐えることだと思っている方がたまにいます。

これは、これまでの人生で私達が経験してきた勉強や部活や仕事がそういうものであることが多いので、ある程度はやむを得ないことです。

鈴木大拙も「努力」という言葉にそういうニュアンスを込めて使っていますね。

 

しかし、吃音克服の観点からやっていただきたいことはそれとは違っていて、上の鈴木大拙の文章に書かれているような、一点の努力の跡もないような、労苦の感情もないような取り組み方をしていただきたいのです。

 

ここで労苦としての努力をして「頑張って」しまうと、まったく成果が出ないということになりかねません。

あるいは、下手をすると、つらいのでもう辞めるということにもなり得ます。

そんな危険性をはらんでいるので、頑張り方のベクトルにはよく注意する必要があります。

 

ところで、小林秀雄の「美を求める心」にも「難しい努力を要する仕事なのです」という表現が出てきます。

ここまで読まれた方は、小林秀雄のいう「努力」が労苦としての努力とは違うということがお分かりになるでしょう。

 

こんなふうに、同じ言葉でも使う人によって意味あいが異なるので、それを読み取ることが大事です。

「頑張れ」と言われたときに、自分にとっての意味で頑張ればいいのか、あるいはもっと別のことを言っているのか。

ここを読み違えると、とんでもないことになります。

 

鈴木大拙の本は、昔に書いた記事でも取り上げていました。

こういうのが無意識のうちに出てくるのが人間の面白いところですね。

こんばんは。昨日は12月教室がありました。

 

期末の6月と12月は、毎回修了パーティーか(修了者がいなければ)期末パーティーをしています。

 

今回は現役生のSさんとMさんが幹事を担当してくださいました。ありがとうございました。

 

写真はSさんによってライトアップされた教室前の看板です(暗いのでピンボケしています)。

 

これをライトアップするという発想は、私は教室に7年間来ていますがこれまでありませんでした。おそらく他の方も無かったと思います。

 

人によってそれぞれの感性があるということを新鮮に感じさせられました。

それぞれの感性がそれぞれに発揮されているのは大変すばらしいことです。

 

また来年もよろしくお願いします(まだ復習会がありますが)。

 

こんばんは。先週土曜日に11月教室がありました。

 

その後の懇親会で中華屋さんに行ったのですが、同じテーブルに美大出身のkikiさんや現役生のSさんがいて、美術の話で少し盛り上がりました。

 

そのなかで、中川一政のことを少しお話しました。この人のことを、私は下記の対談で初めて知ったのですが、すごくいいセンスをしています。

 

中川一政 ✕ 野口晴哉 : 勘を育てる――教育における「機」「度」「間」

 

整体師の野口晴哉との対談で、「気」とか「勘」といったワードが飛びかっており、科学的な観点からすると万人にお勧めできる内容ではないのですが、全編にわたって2人のセンスがほとばしっており、カウンセリングの参考になる箇所がいくつもあります。

 

主だったところを抜き出すと…

中川: 先生っていうのはね、僕は岡倉天心なんかのやり方がいいんじゃないかと思うんです。あのう、美術院のね、研究所っていうのは広いんですよ。そこへ来て、横山大観だとか、下村観山だとか、偉い人たちがみんな並んで、出品制作を描くんです。毎朝、岡倉天心が廻ってくるんです。岡倉天心は、絵描きじゃないですからね、絵描きの細かいことが判らない訳です。ただ廻って来て、一言なんか言う。それで、平安朝のお姫さまを描いていた人がいたんです。そこへ来て毎日、「まだ、鈴虫の音がきこえませんね」って言うんだって。絵描きのほうがいい加減考えちゃうんです。そのやり方が僕はいいんじゃないかと思うんです。

野口:そうですね。それは一番いいです。

中川:普通、自発心を妨げるような教え方をするでしょう。それを自発心を出すような教え方をしているというのはいいんじゃないか。結局、教えないのが一番いいんですよ。教えるってことはただ目に見えるだけのことで、本当のことは教えられないですからね。こういうふうに描いたとしても、これは先生の描き方なんですよ。その人の描き方というのはないんです。

中川:初めにちゃんとした純粋な勘を持っている人が、勘を鈍らせられるということはあるんでしょうか。

野口:こうしなければならない、こうしてはならない、こうしては笑われる、こうしたら褒められるというのは、みんな勘を鈍くします。

野口:春夏秋冬の駒ヶ岳……春夏秋冬を離れた駒ヶ岳が欲しいですね。ずっと通して同じもの、変わらない駒ヶ岳。

中川:ああいうふうな山を描いていても、山と自分とがこう一緒になっちゃう……普通の絵描きが描くと、山は山、自分は自分と分かれちゃっている。僕なんかのやり方だと、山と一緒になっちゃうんですよね。

カウンセリングには、ここで書かれている「勘」が必要です。感性といってもいいでしょう、どんなに知識があっても、勘(感性)がなければどうにもならない。

 

勘が働いていると、今この瞬間にこれを言えば相手に通じる(相手が変わる)というのが咄嗟に分かることがあります。私にもそういう瞬間がめったに無いですが、ごくまれにあります。そういう時は劇的なことが起こることが多いですね。

 

以前に、教室が終わった後に、えぬさんが言友会の会場使用料をまとめて封筒に入れる作業をしていたことがありました。お金を入れて、いざ封をするとなった瞬間に、私がおもむろにセロハンテープを差し出したところ、「さすがですね」と褒めていただきました。

 

「テープを取ってください」と言われてから取るとか、テープを探している姿を見て自分も探すとか、そういうのではダメなんです。

 

相手をよく見ていれば、いまそこで何を欲しているのかが、聞かなくても、直観的に分かるはずなんです。これがすごく高いレベルでできるのが、優れたカウンセラーです。

 

また廣瀬先生を持ち上げて終わってしまうのですが、廣瀬先生はそれが極めて高いレベルで自然にできた人でした。一種の芸術、傑物の域に達していました。廣瀬先生が教室に来られていたときは、その身動き、話しぶりに、「たいしたものだな」と感嘆しながら見ていたものです。

 

観察していると、自然な感じで雑談をしつつ、教室に来ている人に満遍なく声をかけていくんです。私としばらく話して、「今月こいつは大丈夫だ」と分かると、自然な感じで次の人にいきます。そうやって、全員のケアをしているわけです。しかもそれは、病院の診察のようなそれと分かるものではなく、あくまでも雑談とか自然な声掛けとして進んでいきます。悩んでいる人や落ち込んでいる人がいると、じっくり聞くモードに入ります。それはもうカウセリングになっているんです。

 

私もそれに少しは近づいて終わりたいものですが、果たしてできるかどうか。。

先週末の土曜日に、東京教室の25周年式典がありました。

 

東京教室の現役生、修了生、函館・札幌教室のメンバーにも来ていただき、開催することができました。参加者は、一次会33人、二次会24人と盛況でした。

 

参加された皆様、大変お疲れ様でした。

 

また、会場をお貸しいただいたOBのAさん、準備に携わられた準備委員会の皆様、ありがとうございました。

 

廣瀬先生が逝去されてから3年、教室が一定規模を保ちつつ活動を続けていることはまことに意義深いことだと思います。

 

次なる5年間もどうぞよろしくお願いいたします

 

ネットで吃音について調べていると、吃音者の方が書いた文章やコメントを見かけることがあります。

 

そこで気になるのは、みなさんが「治る」という言葉を、どのような意味あいで使っているかということです。

 

緊張したときや咄嗟に話すときには、吃音でない人でも言葉が突っかかることがあります。これは言葉がよほど流暢でないかぎり、ほとんどの人にあるはずです。

 

治るというのが、このくらいのレベルを指しているのであれば、私は特に吃りやすい場面以外では「治った」といえるでしょう。

 

しかし、どのような場面でもよほどのことが無い限り吃らないというレベルを「治った」というのであれば、私は治っていません。

 

「治る」ということが、自分にとってどのくらいのレベルを指しているのか、ということを改めて見直してみる必要があるように思います。

 

もしかすると、普通の人でもあり得ないほどの流暢さを「治った」状態であると見なし、それに至らないことで、いたずらに苦にしているということはないでしょうか。

 

それから、吃っているとしても、それが実生活上、どれだけ支障があるかという観点も大事です。

 

吃ることが許されないとか、マイナス評価されるとか、からかわれるとか、そういう場面はたしかにあります。

 

しかし、そうでない場面もある。理解のある同僚や友人の前など、吃ってもマイナスにならない場面で吃ることを苦にしているとすれば、それはその人の受け止め方しだいで楽になれる余地があるかもしれません。

 

たしかに吃音であることは社会生活のさまざまな場面でマイナスになったり損をしたりすることもあります。しかし、そうでない場面もある。過度に吃音を苦にすることは、その人のQOLをいたずらに下げることになります。

 

わざわざそういうことをしなくてもよいのではないか、というのが私の印象です。

 

 

 

 

こんばんは。昨日はまた学会発表してきました。学会というのは地方であることが多いですが、今回は東京23区内でした。

 

アクセスのよさのためか、朝一番の発表にも関わらず25人くらいの方が集まり、大学の研究者だけでなく官公庁の専門家も集結するという、なぜか豪華なメンバーでした。

 

そんな中で発表したのですが、会場のかなりの方と面識があったためか、一箇所つまづいた以外は吃りませんでした。普段の大学での授業のほうがよほどアウェーという感じでした。

 

吃るかもしれないという不安もありませんでした。

 

むしろ、時間にうまく収められなかったのが残念でした。今回は他の報告者全員が時間を超過しており、自分だけがやってしまったという感じにはならなかったですが。

 

国内での学会発表については、その分野では一角の地位を占めてきたこともあり、強い予期不安だとか実際に吃るということは、ほとんど無くなってきつつあります。

 

「これが吃音の克服というものか」という感じがしています。

こんばんは。

 

以前のブログで、「幼少期に「おもちゃ」をまだ知らなかった頃、私達はなんでもない石ころを、車に見立てたり、人間に見立てたり、お金にしてみたり、何にでも変えて遊ぶことができました。ところが、いったん車のおもちゃだとか、お人形を知ってしまうと、もう石ころはただの石にしか見えなくなってしまいます。」という文章を書きました。

 

これに通じるメッセージが込められているレゴの広告がありましたのでご紹介します。↓のような広告です。

 

 

なんでもない2つのブロックですが、その影は船になっています。このブロックは、それで遊んでいる側から見ると、船に見えているということなんですね。

 

ブロックは、ただ見ているだけではブロックに過ぎませんが、そこに無限の想像力を込めると、こんなふうに船になったり、あるいは車になったり飛行機になったりと、何にでも変えることができます。

 

子供の創造性を伸ばすという観点からすると、具体的な形のあるおもちゃではなくて、こういったブロックで想像を巡らしながら遊ぶほうがいいのかもしれませんね。

 

吃音に当てはめてみるとどうでしょうか。吃音の人は、言葉のつっかかりを吃音としか認識することができません。そのために、実は吃音ではない、普通の人も緊張したときに起こる言葉の乱れも、吃音として認識したりします。そんなふうに、特定の一つの考え方・見方に固着しているのが吃音のよくある特徴です。

 

そうではなくて、ブロックを船にしてみたり、あるいは車や飛行機にしてみるような豊かな見方ができれば、その人から見える世界はまったく違うものになるはずです。

 

まだ幼く、言葉の突っかかりに「吃音」という名前をつけることもなく、自分が吃音であると意識することもなかった頃、私たちの思考や発想はもっと自由であったと思います。それがいつしか凝り固まって、ブロックをブロックとしてしか見られなくなってしまう。

 

大人になると、いろんなことが当たり前になってしまっていますが、それは本当にそうでしょうか。一つ一つ見直してみて、解きほぐしていくと、新しいことが見えてきます。

 

こんばんは。

 

私の勤務先である大学では、そろそろ前期が終わる時期になります。

 

学生は期末試験の勉強をしている時期ですが、私は教員側なので、この一週間は期末試験の問題作成や、その実施に時間を費していました。

 

期末試験を行うさいは、開始前に注意点を説明したり、終了後に回収して成績評価の仕方を説明したりします。

 

この一週間はそれをずっとやっていたのですが、思い返してみると、吃るかどうか気にしていた記憶がありません。普通に喋る分には、吃音が意識に登ることはもはやほぼ無くなったといえます。

 

不意に吃ることはもちろんありますが、それをほぼ気にしていないというのが、かつてと比べての違いだと思います。

 

そういうふうにしてみると、吃音というのは、吃ること自体が問題なのではなくて、それをどう経過するかが問題なのではないか、と思いました。

 

吃音者は吃ることを極度に恐れますが、人間が成長していく過程において失敗することはむしろ当たり前です。人間以外の動物も、本能だけで生きている生物を別にすれば、失敗と成功を繰り返しながら成長していきます。

 

動物が狩りを覚える過程にしても、絶対に失敗しながら身につけていきますよね。最初から最後まで成功し続ける動物は見たことがありません。

 

そういうふうにしてみると、失敗しないことにエネルギーを注ぐよりも、いかに失敗を活かすかとか、失敗をタブー視しないといったことが大事になってきます。

 

吃音というのはその逆をやっているので、それは生きにくくなりますよね。吃ってはいけない、ということを突き詰めると、最終的には言葉を発しないとか、引きこもるしかなくなります。

 

これは吃音以外のことにもいえることで、勉強とか、学歴とか、職業とか、年収とか、社会的地位などを、「◯◯でなければならない」と考え始めると、とたんに生きづらくなります。

 

こうした「◯◯でなければならない」という規範的な意識を外していくと、人間はどんどん生きやすくなっていきます。ロジャーズの人生も、伝記を読むとよく分かりますが、だんだん自由になっていく過程でした。

 

代表的なロジャーズの伝記である諸富祥彦先生の『カール・ロジャーズ入門』も、副題は「自分が“自分”になるということ」になっています。

前回は、内向性と外向性ということを書きました。

 

書いた後に、自分がそれ以外に気を付けている性質はないかと思い返してみると、父性と母性、論理性、権威性、(情緒の)安定性などを見ていることに気付きました。

 

このようにして、人をタイプに分けてみる見方はフロイトやユングなど精神分析の世界のもので、ロジャーズ流のカウンセリングではそういうこと(解釈)はしない、ということになっています。

 

なので私も「あなたは外交的だからこうしたほうがいい」とか、そういうことはまず言いませんし、自分の頭でそういうことを考えることもありません。基本的に直感のみで話しています。

 

ただ、相手によって、言ったほうがプラスになりそうな場合には、言うこともあります。

 

自分で気づくのを待っていると著しく時間がかかりそうだとか、言うことによって著しく気づきが進みそうだと感じた場合には、状況をみて言っている場合があります。

 

かつて廣瀬先生と話していたときに、教えるということは基本的にしないほうがいいが、人によっては自分から気づくという働きが著しく弱かったり、ほぼ無い場合があるので、そういう人に対しては教えることも時には必要という趣旨のことを言われたことがありました。

 

廣瀬先生のテーゼは「教えない教育」でしたが、それであっても時には教えたほうがいい場合があったということです。

 

ただ、やはり教えるということは最大限に控えたほうがいいです。

 

なので、相手のタイプを分析してみたり、教えるというようなことは、極力しないようにしています。

 

教えないって簡単そうに見えますが、これは実はすごく難しいんです。吃音がよくなればなるほど、こうすればよくなるというのが分かってくるので、すぐ教えたくなります。

 

それを口に出さないで、何も言わずにそのまま帰っていくというのは、教えることよりよほど難しいんです。教えてしまえば(口に出してしまえば)すっきりすることができますが、黙ったまま帰るとそれができません。

 

なので、だいたいの人は教える(口に出す)ことですっきりして帰ろうとしてしまうんですが、そうすると、その人はすっきりするけれども、言われたほうはあまり気付きがない、ということがよくあります。そこでじっくり機を待てるかどうかが分かれ目になります。

 

こんなふうにやってると、カウンセリングというのはすごく疲れます。しかし、疲れるというのはちゃんと話を聞いているということなんです。話をうわべでしか聞いていなかったり、自分の言いたいことだけを言っていれば疲れません。

 

疲れるかどうかは、相手の話をきちんと聞いてるかどうかのパラメータになります。

 

かつて廣瀬先生に「カウンセリングしているとすごく疲れるんですが、先生はどうですか」と聞いたら、「一日に何度もカウンセリングしても、疲れなんか感じたことない」と言われたことがあります。それで自分ももっとレベルアップすればそうなるのかと思っていたのですが、亡くなった後のご家族の話では、教室の翌日は寝込んでいたそうです。ああ、やっぱりそうだったのかと思いましたね。

 

もちろんクライアントがよくなる姿を見ることによって、元気になる部分もあります。廣瀬先生もそれが楽しみで東京に通っていたのでしょう。ただ、同時に疲れる部分もあるということです。