団塊Jrのプロレスファン列伝 -2ページ目

ストロングスタイルの象徴 3

2からの続き、いよいよ最終章です。

 

北海道から始まり、川崎、名古屋、大阪と強さとテクニックを見せつけ日本を席巻してきたマツダ旋風。その最大の山場は第31戦。最終戦前日となった7月5日の東京体育館で見られることとなりました。

 

この日は馬場さんの持つインターナショナル選手権にキラー・カール・コックスが挑戦。そしてマツダ、デューク・ケオムカが保持するNWA認定世界タッグ選手権にエディ・グラハム、サム・スティムボートが挑戦するタイトル戦2試合がダブル・メインイベントとして行われました。シリーズで急上昇したマツダ人気。その現象は最終まで止むことがなく、当時の馬場さんにしても存在は霞むばかり。この日も約10000人で埋め尽くされた会場の視線はマツダへと熱く注がれます。


加え、この対戦こそフロリダマットから日本へ直輸入された名物カード。それぞれがお互いを熟知しているだけあり試合では激しい攻防が展開されました。


1本目を先取したのはグラハム。25分30秒、足殺しのデスロックからケオムカをレッグ・クラッチ・ホールドに下したとあります(このレッグ・クラッチ・ホールドがどんな技だったのかは不明)

 

2本目はマツダが奮起。グラハムをロープにリバウンドさせカウンターの逆水平チョップから倒れたところを速攻で押さえ込み3分11秒、取り返し1-1のタイへ持ち込みました。

 

そして決勝の3本目。グラハム、ケオムカが場外で戦いチーム分断。これをチャンスと見たマツダはスティムボートにチョップの集中砲火からショルダータックルを浴びせると、素早くバックに回り、6分53秒、日本マットで2回目となる必殺のジャーマン・スープレックス・ホールドが火を吹くのでした。

 

2でも書きましたが、その映像は現在まで確認されておらず写真も一瞬をとらえたものしかありませんでした。しかし、この試合に関しては2より参考にしました原康史著の「激録 馬場と猪木」の第4巻に、連続で撮影した貴重な写真が掲載されていました。


激録 馬場と猪木 第4巻

 

マツダのジャーマン・スープレックス・ホールドの一部始終を捉えた、おそらく唯一の写真だと思います。抜粋し見ていってみましょう。







 

なんという素晴らしい、なんという見事なジャーマン・スープレックス・ホールドなのでしょうか・・・その姿に感動すら覚えます。

 

未熟な考察ではありますが、画像から可能なかぎりの解析をしてみたいと思います。

 

写真を見て、まず驚かされたこと・・・それはマツダの技に入る態勢、ポジションです。

 

最初の画像①で低い姿勢で相手のバックを取っています。そして画像②ではマツダが腰を落とし、かなり低く、深く入っているのがわかります。


画像②。相当に深く沈み込んでいるのがわかる

 

このときマツダの胸部とスティムボートの臀部が同じ位置にきてピタリと合わさっているのがわかると思います。この位置を意識して画像②から③④⑤⑥と見てもらいますと、その位置はどうでしょうか?そう、最後までほぼ変わっていないことが確認できますよね。


横から。技の体勢に入り投げきるまで、マツダの胸部とスティムボートの臀部の位置はズレていない


別角度から。インパクト直前でも、その位置に変わりがないことがわかる

 

この点から、マツダのクラッチしてからの引きつけ、締めつけがいかに強かったか?しっかりしていたか?ということがわかります。忠実なゴッチ流ジャーマン・スープレックス・ホールドであったことが伝わってくるシーンだと思いました。

 

そして次に、技を受けているスティムボートの態勢です。強力なクラッチで体勢をキープしながら首、背中、脚と体全身を連携させブリッジしていくマツダ。しかし画像⑥のインパクトの瞬間、その状態はどうでしょうか?


画像⑥

 

投げられる際にかかる遠心力と投げられた衝撃から、丸まったり、くの字になるなど技の受け手の体には必ず変化が出るものですが・・・確かに多少の変化こそあるものの、スティムボートの体はほぼまっすぐ。わずかに"くの字"になったような状態です。そう、よく目にするエビの形ではなくマットに「刺さる」といった感じになっているのです。


初公開の川崎球場の別角度からの画像。このときもスティムボートの体は丸まらず、刺さるような状態。わずかに"くの字"になるような感じだった

 

この点から・・・マツダのジャーマン・スープレックス・ホールドは、おそらく大きな弧を描いたり高角度だったというものではなく、高さを出さずブリッジを効かせ素早くストンと落とすような「フォール」に忠実な実戦的な形のもの・・・だったのではないでしょうか?


1982年、新日本プロレスの元旦決戦で藤原と対戦したゴッチが見舞ったジャーマン・スープレックス・ホールドは映像が残っているが、これこそマツダのそれに最も近い型だったのではないだろうか?

 

もしくは・・・マツダがスティムボート以外にジャーマン・スープレックス・ホールドをかけている写真が現存していないため真意は掴めませんが、もしかするとこれがスティムボート流の受け身であっただけ、なのかもしれません。


確かに過去にジャーマン・スープレックス・ホールドに対し、こういった受け身をしたレスラーは存在する(画像は1981年8月6日 蔵前国技館でのアントニオ猪木vsマスク ド・スーパースター)

 

実際にはどうだったのか?映像が皆無であるマツダのジャーマン・スープレックス・ホールドの真実を知ることは、もはや夢物語・・・なのかもしれません。

 

でも、この6枚の写真から、ひとつだけ確実にわかることがあります。とても重要で大切な、この技の真実を知ることができるところがあるのです。

 

それは「お客さんの顔」です。

 

先ほどの6枚の写真を、今度は観客席に目を置いてもう一度、大変でも上へ戻って見ていただければと思います。写真1枚ごとに変化していく驚き、喜び、感激の表情・・・どうでしょうか?マツダのジャーマン・スープレックス・ホールドを、どれだけ楽しみに待っていたか?その技がどれほどすごかったのか?そのすべてを物語っているとは言えないでしょうか?

 

実態はわからずとも、ここにそのすべてが表れているとボクには思えました。

 

さて、この試合でジャーマン・スープレックス・ホールドを炸裂させた翌日の7月6日。シリーズは最終戦(横浜とありましたが会場はわかりませんでした)を迎え、大旋風を巻き起こしたマツダの凱旋シリーズは終わりました。

 

しかしシリーズを終えたマツダはすぐ海外には発たず、少しだけ日本に留まります。今回の来日で奥様を同伴していたマツダは、このあと新婚旅行を兼ねヨーロッパ方面へ向かうことになっていたため残ったのですが・・・実はその他にも日本に残った理由があったのです。それはカール・ゴッチを出迎えるため、でした。

 

マツダの師であったカール・ゴッチは1961年の5月から7月まで「第3回ワールドリーグ戦」と「プロレス選抜戦」の2シリーズにカール・クラウザーとして連続参戦し、その実力を存分に発揮しました。しかし残念ながら、その後の来日はありませんでした。力道山の死後、もう一度ゴッチを日本へ呼ぼうという話が出なかったからです。

 

そのゴッチが1966年7月、ヒロ・マツダ旋風が吹き荒れた「ゴールデン・シリーズ」の次のシリーズである「第一次サマー・シリーズ」に5年ぶりに来日することになったのです。でも、もはや日本から声がかからなかったゴッチが、なぜ再び日本の地を踏むことになったのでしょうか?

 

実は、このゴッチ来日を日本プロレスへ志願、働きかけていた人物こそマツダだったのです。

 

マツダはこのシリーズ参加中に

 

「アメリカ・マット界では完全に干された存在だが、あのゴッチのレスリングは必ず日本のマット界にプラス作用をもたらす筈だ」

 

と日本プロレスのフロント陣に猛アピールし、来日をプッシュしていたのです。これに前回の来日時でゴッチと最も多く戦い、その実力を知る吉村道明が支持し、カール・ゴッチの再来日が実現したのです。


第一次サマー・シリーズに参戦するため来日したゴッチを空港で出迎えるマツダ。師弟の久々の再会。思わず顔がほころぶ

 

このとき、7月14日に行われた来日記者会見でゴッチは力道山のこと、馬場さんへのインターナショナル王座への挑戦のことに加え、ヒロ・マツダについてこう話しています。

 

「彼は本当に強くなった。 私の教えたジャーマンスープレックス(原爆固め)を完全にマスターしてしまった。リングを離れれば彼とは親友だが、マットに上がれば今でも最大のライバルの一人。彼と一緒にトレーニングしていた時代が無性に懐かしいね」

 

その後、マツダは日数の可能な限り日本に残り、ゴッチと共に道場で汗を流したといいます。

 

それから5ヶ月後。アメリカでファイトしていたマツダは年が明けた67年1月5日。今度は日本プロレスではなく、大阪府立体育館にて旗揚げされた国際プロレスに参加し日本のマットへ上がることになります。

 

この旗揚げ時、国際プロレスは前年の66年10月12日に旗揚げされていた東京プロレスと業務提携し「パイオニア・シリーズ」を合同興行にて行います。これによりマツダは猪木と再会。日本で初めて猪木と同じマットに上がることになります。

 

シリーズではアメリカ以来のタッグを結成しNWA世界タッグ王者として活躍しましたが、そんなマツダと猪木の、それは旗揚げし3度目のタッグマッチ。こんな結果がありました。

 

1967年1月9日 熊本市水前寺体育館

タッグマッチ 60分3本勝負

アントニオ猪木、ヒロ・マツダvsダニー・ホッジ、エディ・グラハム

① マツダ(17分25秒 ジャーマン・スープレックス・ホールド)ホッジ

②ホッジ(4分55秒 体固め)マツダ

③ 猪木(6分1秒 反則勝ち)グラハム

 

1でも書きましたが、海外武者修行時代の1965年11月末、テネシー州でマツダと猪木は合流。そのわずか数日後の12月に、猪木はタッグパートナーとしてマツダのジャーマン・スープレックス・ホールを目の当たりにしています。そして時を経て今度は日本で。合流し、わずか数日後にタッグパートナーとしてマツダのジャーマン・スープレックス・ホールを目の当たりにしているのです。

 

使用されたのは生涯でもわずかとされるマツダのジャーマン・スープレックス・ホールドですが、そのうち猪木とのタッグで二度も。しかも、どちらも合流後すぐのタッグでです。これは単なる偶然だったのでしょうか?


タッグマッチにて猪木との連携を見せるマツダ。しかし、マツダは猪木と組みながらもジャーマン・スープレックス・ホールドを出すことで"格のちがい"プライドの高さを見せつけていたのではないのだろうか?

 

その猪木は、マツダが日本で最後にジャーマン・スープレックス・ホールドを出した試合と思われる上記のこの試合から約2年半後に、ジャーマン・スープレックス・ホールドを初公開しています。


1969年6月12日、秋田県立体育館で初公開された猪木のジャーマン・スープレックス・ホールド

 
カール・ゴッチからヒロ・マツダ、アントニオ猪木へと受け継がれたジャーマン・スープレックス・ホールド。その技は猪木から、今度は新日本のレスラーへと戦いの精神と共に受け継がれていきます。

藤波辰巳

タイガーマスク

前田日明

高田延彦
 
絶大なる師弟との関係。そして弟子同士の関係。そこには厳しい練習に耐え、ライバルに負けないために努力し技術を磨き、身につけたその技術で攻防を繰り広げ戦っていくレスラーの姿がありました。そして、誰より素晴らしい動きで観客を魅了することもあれば、命懸けのセメントをすることもありました。仲間同士、戦いの中で切磋琢磨し励まし合いながらも、ときにはレスラーとしのプライドを示すこともありました。
 
すべては「強くあるため」に。そして「誰にも負けない」ために。それがストロングスタイルで、それが最も象徴されるものこそジャーマン・スープレックス・ホールドではなかったでしょうか?

もし、そうであるならば・・・ストロングスタイル。その言葉が聞かれるようになった今こそ象徴を表すときではないのかと、そう思います。甦れストロングスタイル。甦れ象徴。そして甦れ、プロレスラー!!バックに回った瞬間、前のめりになりながら思わず握りこぶしを作ってしまった、あの日、あのときのプロレス。そんなシーンを再び見れる日が来ることを信じ、願っています。
 
長文に最後までお付き合いいただき、ありがとうございました。
 

ストロングスタイルの象徴 2

1からの続きです。

 

カール・ゴッチに師事し、ダニー・ホッジをも倒す実力を身につけたマツダはアメリカでの実績を引っ提げ、1966年5月27日から札幌中島スポーツセンターで開幕する日本プロレスのゴールデン・シリーズに参加することになります。

 

この年始めに豊登が離脱。そして3月には、あの「太平洋上の略奪」により猪木が離脱と、大事件が続いた日本プロレス。そこへ、退団から実に8年ぶりとなったマツダの登場は、まさに起爆剤でした。


NWA認定世界タッグ王座のベルトを手に堂々の凱旋を飾ったマツダ。左はタッグパートナーの黒帯親分ことデューク・ケオムカ

 

このシリーズで日本マットで日本人初となる必殺のジャーマン・スープレックス・ホールドが放たれることになるのですが、実は注目するところはそこだけではありませんでした。

 

マツダの凱旋、それは一体どういったものだったのか・・・?その詳しい経緯が原康史・著の「激録 馬場と猪木」の第4巻に載っていましたので、書を参考に順を追って見ていくことにしましょう。


激録 馬場と猪木 第4巻

 

まずは5月27日。札幌中島スポーツセンターでの開幕戦です。凱旋帰国第1戦となったこの日はマツダ、ケオムカに吉村道明が加わり、キラー・カール・コックス、エディ・グラハム、サム・スティムボート組が対峙する6人タッグマッチでした。結果は2-1で取り日本組が見事白星で飾りましたが、この日はジャーマン・スープレックス・ホールドは出ませんでした。

 

続くシリーズ第2戦、5月28日。この日も札幌中島スポーツセンターです。開幕戦で、これまでにないテクニックとアメリカ仕込みの戦術を見せつけたマツダに注目が集まり人気は急上昇。会場は超満員となる約7000人ものお客さんで埋め尽くされたといいます。

 

そんな中、マツダは馬場さんを抑えメインで登場。キラー・カール・コックス、ジョー・カロロ組の持つアジアタッグ選手権に吉村と組んで挑戦するタイトルマッチで登場となりました。

 

61分3本勝負で行われたこの試合は1本目を吉村が25分0秒、得意技の回転エビ固めを電光石火で決めカロロから先取。続く2本目をマツダが矢のようなドロップキック3連発からパイルドライバー気味のボディスラムで10分13秒、体固めで取り2-0のストレートで勝利しました。これにより凱旋帰国第2戦目にして第15代のアジアタッグ王者となったマツダの人気は、さらに上がることとなりました。

 

しかし試合はコックスのラフ攻撃に流血のマツダが奮闘する展開となったため、テクニックよりケンカ殺法が優先。この試合もジャーマン・スープレックス・ホールドはお預けとなりました。

 

第3戦、5月29日。旭川市営グラウンドでは6人タッグながら馬場さんと初タッグ結成。マツダ、ケオムカ、馬場vsカロロ、グラハム、スティムボートというカードが組まれました。

 

試合は1本目をカロロがケオムカから7分37秒に体固め。2本目をケオムカがカロロから5分4秒に体固めでそれぞれ1本づつ取り合います。しかし3本目4分43秒、両軍リングアウトにて引き分けとなり、この日もジャーマン・スープレックス・ホールドは出ませんでした。

 

その後、シリーズ序盤はこのような状況が続きましたが、中盤となった第18戦。6月18日の川崎市営球場で、ついに必殺技が炸裂します。

 

凱旋後に大爆発したマツダ人気。日に日に増していくその波に加え、この日の大会はマツダの地元である横浜市鶴見区の近くでの開催ということでマツダの後援会と地元ファンが大挙集結。地元凱旋マッチの形にもなったため大勢の観客が会場を埋め尽くす方となりました。


1963年7月以来、3年ぶりの開催となった川崎市営球場でのプロレスは15000人という大観衆で埋め尽くされた


会場にはマツダの後援会の垂れ幕も映える。いかに人気だったかがわかる

 

そんな中で行われた試合は王者ヒロ・マツダ、吉村道明組にエディ・グラハム、サム・スティムボート組が挑むアジアタッグ選手権試合でした。

 

マツダこそ海外でも何度か対決しているグラハム、スティムボート組ですが、チームとしては日が浅い吉村とのタッグでは盲点を突かれ、王者チームはタッチワークで翻弄されてしまいます。

 

しかしそんな中でもマツダはスティムボート相手にスタンド、グラウンドと激しく目まぐるしいテクニックで応戦。やがてロープのリバウンドで返ってくるスティムボートにタックルの要領でスクッとバックに回ると、ついにその瞬間が訪れるのでした。


これがシリーズ第18戦目にして満を持して放たれたマツダのジャーマン・スープレックス・ホールドだ!!

 

それは、ベタ足が安定した見事なアーチの、そしてその膝の角度から技の威力がひしひしと伝わってくる芸術的にして衝撃的なものでした。

 

ですが、写真こそあれど・・・残念ながら現在までにこの試合の映像が確認されたことがないのです。この日のマツダのジャーマン・スープレックス・ホールドはどういうものだったのか?映像なくして、その実態を知ることはもはやできないのかもしれません。


しかし、この技を放った瞬間、会場は静寂のあと大歓声へ変わったという記述が残されています。それはマツダの技が誰の目にも素晴らしく写ったということであり、完璧であったことを物語る何よりの事実ではないかと思えるのです。それが1本目、33分32秒。カール・ゴッチの日本初公開から5年後に放たれたヒロ・マツダのジャーマン・スープレックス・ホールドだったのです。

 

試合はその後、2本目を5分26秒、マツダがグラハムのニードロップ2連発を喰らって取り返されタイ。そして3本目、マツダがスティムボートをコブラツイストにとらえ、あと一歩まで追い詰めたところでゴング。時間切れ引き分けとなりました。これによりタイトルこそ防衛となりましたが、タッグチームとして完全勝利を収めることはできませんでした。

 

しかしプロレスの歴史上、日本でカール・ゴッチ以外のレスラーで初めて使われたジャーマン・スープレックス・ホールドに人々は歓喜。

 

「ジャーマン・スープレックス・ホールドは次はいつ出るのか?」

 

「矢のようなドロップキックは?」

 

「あのコブラツイストは?」

 

見たい、マツダが見たい!!ファンの興味はさらに膨れ上り、マツダへ注がれることになったのです。

 

そんな期待の中、第25戦の6月27日、名古屋市金山体育館と第26戦の6月28日、大阪府立体育会館では思いもよらない事件が起きてしまいます。

 

まずは第25戦の6月27日、名古屋市金山体育館。この日はマツダ、吉村組が持つアジアタッグ王座にコックス、グラハムが挑戦する選手権試合が行われました。

 

タイトル戦のようなビッグマッチならマツダのジャーマン・スープレックス・ホールドが見れるのではないか?ファンの気持ちが高ぶる中、試合は1本目をドロップキックからのモンキーフリップで17分27秒、まずはマツダがグラハムから体固めで奪います。


グラハムへ得意のドロップキックを放つマツダ。その素晴らしいフォームには思わず目を奪われる

 

しかし2本目、マツダのモンキーフリップを読んだグラハムが、仕掛けた瞬間にクルリと1回転。丸め込んで8分55秒、エビに固めてフォールしタイへと持ち込みました。

 

このふたりのテクニック合戦に会場は沸きますが、しかし3本目。ここでコックスが乱暴狼藉。凶器攻撃、噛みつきと吉村を徹底的に反則で攻め込むと、10分38秒。そのまま押さえ込み3カウントが入ってしまったのです。

 

これによりマツダ、吉村はアジアタッグ王座から転落となってしまいますが、この判定に納得いかなかったのは会場に来ていた約7000人もの観客でした。

 

「どう考えても反則負けだろう!!ふざけるな!!」

 

と、コックス、グラハム、レフリーに怒号したかと思えば、リング内におびただしい数のイスを放り込み始めたのです。

 

この行為に危険を察知したマツダ、吉村は早めに控え室へと戻りましたが、コックスは逆にイスを手にし、取り飛んでくるイスを弾き返し応戦しだしたのです。


「来やがれジャップ!!」コックスも殺人鬼の本領を発揮したが・・・

 

ですが、これが火に油を注ぐ形となってしまい、今度は観客がリングサイドに殺到。何十人という大勢の観客と警備の警察官と若手レスラーが乱闘紛いの揉み合いになる事態となったのです。それこそ、最後にはコックスの控え室にまで押し寄せ「名古屋から生きて出さないぞ!!」と、ドアを叩き割らんとするほど・・・まさに大暴動へ発展してしまったのです。

 

実はこの日、与那嶺要(よなみね かなめ:当時中日ドラゴンズの打撃コーチ。のち中日ドラゴンズ監督)と高木守道(たかぎ もりみち:当時中日ドラゴンズ内野手。のち中日ドラゴンズ監督)がリングサイドで観戦していたそうなのですが、その騒動に巻き込まれてしまったふたりのコメントが昭和41年6月29日付の東京スポーツに掲載されていました。

 

与那嶺は

 

「野球でもファンは騒ぐ。中日球場でも、よくビンや座ぶとんが投げこまれるが、プロレスの騒ぎはスケールが違う。殺されるかと思った」

 

と顔を引きつらせ、高木はとにかく頭を抱えて逃げ

 

「生きた心地がしなかった」

 

と戦々恐々の赴きでコメントしたといいます。不幸中の幸いか、この騒動でのケガ人は1名で済んだそうですが、ひとつまちがえば大惨事になりかねない出来事でありました。

 

こうして余韻も覚めぬまま迎えた翌日の第26戦、6月28日の大阪府立体育会館。この日は、前日のタイトル戦にて新アジアタッグ王者となったキラー・カール・コックス、エディ・グラハム組にマツダとケオムカのNWA世界タッグ王者チームが挑戦する一戦が行われました。

 

試合は2-1でマツダ、ケオムカが勝利しましたが、3本目が反則勝ちでの1勝。ルール上、2フォールでないと王座移動は認められないということでコックス、グラハムの王座防衛となったのですが、この判定がまたも観客の怒りを買い、名古屋と同じくイスがリングへ乱れ飛ぶと観客と警備の警察官と若手レスラーが揉み合う事態となったのです。

 

前日はイスを手に応戦したコックスでしたが、さすがに懲りたようで、この日は早々と控え室に退散。大事には至らずに済んだようでした。


試合後、グラハム、コックスを護衛する若き日の星野と小鉄さん。イスを傘がわりに持ち、飛んでくるイスを払いのけながらの退場となった

 

名古屋、大阪の2連戦。1966年の日本プロレス史において、こんなことがあったのかと思った方もいたと思います。まさに歴史に埋もれてしまった知られざる大事件、大暴動でした。

 

と・・・いうことろなのですが、実は今回この出来事をご紹介したのは、この事件をお伝えするためではない、のです。

 

本当に伝えたかったこと・・・それはこの第26戦、6月28日の大阪府立体育館での1本目のフィニッシュでした。

 

その1本目。マツダはグラハムと正攻法のレスリングでやり合い会場を魅了しました。しかし相手がコックスに代わるとまたも凶器や噛みつきの反則三昧。ラフファイトへと出てきたのです。

 

シリーズではコックスと何度も対決しラフでも渡り合っていたマツダでしたが、その日、マツダがコックスへ出したのはチョップやキックではなく、なんと関節技。スタンドでコックスの腕を取ると逆関節に極め1本目にギブアップを奪ったのです。記録では22分44秒、片腕固めとなっているのですが、その貴重なフィニッシュ写真を見てみると・・・


こ、この技は・・・!?

 

コックスはみなさん知ってのとおりブレーンバスターの祖。"KKK"として恐れられ、ヒールとして長きに渡りアメリカ、日本でメインイベンターとして活躍したビッグネームです。事実このシリーズもコックスを軸に展開されていたほど。文字通りのエース外国人選手で、それこそ終盤には馬場さんとインターナショナル選手権が組まれるほどのポジションでした。

 

そしてその腕っぷしの強さはディック・マードックが兄貴分として親っていたことからもわかるように、申し分のないレスラーでした。そんなコックスが、驚くべきことにタッグでのタイトル戦の1本目にして腕を極められ敗れているのです。そう、相手のフェイバリットホールドでもなければ反則やリングアウトでもなく、スタンドポジションでの関節技でです。あのキラー・カール・コックスが、です。これは一体どういうことで、何を意味するのでしょうか!?

 

もしかするとこれは・・・開幕から連日の狂乱ファイトで暴れまくっては、どの選手と戦っても反則の乱戦。ついには暴動を引き起こしてしまうという、そのあまりにかけ離れてしまったコックスのプロレスに業を煮やしたマツダが「いい加減にしとけよ」と"お灸を据えた"とは・・・考えられないでしょうか?


この日のマツダは、あの"伝説の技"をも繰り出している。ただならぬ空気があったことはまちがいないようだ

 

もちろん真相はわかりません。しかし、かつてグレート・アントニオやバディ・ロジャースに迫ったカール・ゴッチのプロレスへの理念が、マツダへも以心伝心されていたのではないか?そんなことも考えることができる出来事だったのではないかなと・・・思えるのです。

 

ジャーマン・スープレックス・ホールドに代表されるゴッチ仕込みの技やテクニックももちろんそうなのですが、強さと共に、ときにはこういった"怖さ"を発揮することができるのもストロングスタイルのひとつとは言えないでしょうか?そう思い、この歴史に埋もれてしまった事実も掘り下げてみた次第です。

 

3へ続きます。

 

Photo Exhibition 16 ~おれたちの8.8~


「おおっとバックドロップ~!!驚天動地、天地創造のバックドロップか!!」

35年目の夏。猪木さんがいない初めての8.8。

感謝を込めて、心して試合を見ようと思います。
 
presented by masked-superstar2