団塊Jrのプロレスファン列伝 -3ページ目

ストロングスタイルの象徴 1

どうも!!流星仮面二世です!!

 

さて、ストロングスタイルと人が言います。それはボクが幼き頃からあった言葉ですが、時代の流れからか?一時はあまり聞かれなくなりました。しかし近年、また取り上げられることが多くなり、耳にする機会も多くなりました。

 

そんなストロングスタイルですが・・・それは実のところ、なんなのでしょうか?

 

それはプロレスにおいての「強さ」そのものであったり、あるいは「感情」であったり「意識」であったり。アントニオ猪木自身がそれであり、その新日猪木流を継ぐものこそストロングスタイルのプロレスラーだ!というものもあれば、姿や形ではなく現在にまで脈々と受け継がれている新日本プロレスにおいての「戦い」こそがストロングスタイルなんだ!という意見もあったり。その解釈は十人十色、各人各様のようです。

 

確かに「スタイル」という言葉が広い意味を指すことから、それを一言で語れと言われたなら・・・どんなにベテランのプロレス関係者やプロレスファンでも言い表すのは難しいのではないかなと思います。

 

でも「ストロングスタイルを象徴するもの」と問われたなら・・・どうでしょうか?

 

どんな大きな河川であっても、その源流は山の湧水。小さな小さな流れから始まりますが、そう、それはまさしく川の流れのごとく・・・あれは2021年09月。ボクの幼馴染みのご子息のM.TマシーンズがZoomにて出題した

 

「ヒロ・マツダが初めてジャーマン・スープレックス使ったときの相手は!?」

 

というプロレスクイズから始まりました。

 

コロナ禍をブッ飛ばせ~Zoomプロレスで、いこう!!~

 

ジャーマン・スープレックス・ホールド。それはボクがプロレスで一番好きな技です。

 

そんなこともあり、日本人で初めてジャーマン・スープレックス・ホールドを使ったのがヒロ・マツダなのはもちろん知っていましたが、相手が誰だったか?とは・・・これは盲点。完全に意表を突かれました。

 

その正解はサム・スティムボート。そう、リッキー・スティムボートが甥っ子という触れ込みから同じ名を名乗ったことで、その名を耳にしたことがあるファンもいると思います。まさしくボクは名前こそ知ってはいたものの、それまで気にも留めたことのないレスラーでした。

 

マシーンズ、そうくるとはなぁ~。本当、このときは一本取られた感じでした。

 

しかしその後、気になることが頭の中を右往左往し始めます。

 

ヒロ・マツダがジャーマン・スープレックス・ホールドを日本人で初めて使い、その相手がサム・スティムボートだったのは認識できたのですが、はたしてマツダはどういう経緯でジャーマン・スープレックス・ホールドを使い始め、現役時代はどれくらい、何回くらい使用したことがあったのか?という点でした。

 

そこでマツダがジャーマン・スープレックス・ホールドを使った記録を調べてみると、日本マットにおいては驚くべきことに1966年6月の日本プロレスのゴールデン・シリーズに凱旋帰国したときと1967年1月の国際プロレス旗揚げ時の東京プロレスとの提携興行のときの、合わせてわずか3回しか使っていなかったようなのです。

 

ゴッチ直伝にして日本人初という強烈なインパクトがあったが故に、その意識が優先してしまい完全に「ジャーマン・スープレックス・ホールド=マツダの得意技」という印象を持っていましたが、実はほとんど使われることがなかった貴重な技だったのです。

 

カール・ゴッチへ直接弟子入りし、数々の技や技術を受け継いだことから「ストロングスタイルの発祥」とも言われるヒロ・マツダのプロレス。しかしその経緯は・・・?マツダはどこでゴッチを知り、どうやってジャーマン・スープレックス・ホールドを知り、そして体得し披露したのか?そこに至るまでにはどんなドラマがあったのか?そして、そこから見えてくるストロングスタイルの真の姿とは?

 

ということで今回はヒロ・マツダを辿り、ストロングスタイルの象徴を探す旅に行ってみることにしましょう。

 

まずはヒロ・マツダのプロフィールを基に遡っていってみます。ヒロ・マツダ、本名は小島泰弘(こじま やすひろ)。1937年7月22日、神奈川県横浜市鶴見区出身。高校時代は野球部で活躍。卒業後の1957年に日本プロレスへ入門と・・・一般的なプロフィールではこの記述がほとんどなんですが、マツダの生年月日だと高校卒業年は1956年3月になるので1956年入門の可能性もあるのではないか?と思い調べてみました。すると、こちらの本にプロレスへ入門する経緯から海外へ行くきっかけ、そしてジャーマン・スープレックス・ホールドを使う経緯などが語られている貴重なインタビューが載っていたので、ご紹介しながら進めていくことにします。

 

1995年10月発行 プロレス王国特別編集アントニオ猪木 SUPER BOOK! “燃える闘魂"デビュー35周年記念号のヒロ・マツダ インタビュー「ヒロ・マツダが明かすストロング・スタイルの夜明け」より抜粋(原文まま)

 

マツダ:ちょうど高校1年の時にプロレスが入ってきたんですよ('54年=昭和29年)、 シャープ兄弟が来日して。その頃はプロ野球の選手を夢見て、東京の荏原高校で甲子園を目指していたんですが、練習を終えて街頭テレビを観ていたら「この世界に飛び込めば海外に出られるな」と思ったんですよ。貧困な日本にいて、海外にも憧れていた訳です。

 

一番最初のきっかけは力道山だったわけですが、しかし力道山やプロレスへの憧れより"海外へ出られる"というのが先に来ていたところがポイントではないかなと思います。もちろん時代背景という理由もあったかもしれませんが、初めてプロレスを見たとき海外という発想に至ったこのインスピレーションが、マツダのその後のプロレス人生をすでに暗示していたのではないかなとボクには思えました。

 

続いてはプロレスへの入門です。

 

王国:日本プロレス入門までの経緯はどうだったのですか。

 

マツダ:高校を3月に卒業して、力道山の自宅が池が谷(東京都)にあって「入門させて欲しい」と訪ねたら、田中米太郎さん(力道山の付き人)が玄関に出てきて当時、私は182センチで88キロくらいの体格でね「じゃ、中に入れ」って。そうしたらヨッちゃん(百田義浩=引退)、ミッちゃん(百田光雄=現全日プロ)もいて、食事時でね、テーブルの上に焼肉が山盛りで「こんなに日本は経済的に苦しいのに、プロレスはたいしたモノだな」って実感して。そうして力道山が「プロレスに入りたいのか、野球経験があるんなら明日、府中で野球の試合があるから来い」という返事。プロレスラー対府中刑務所の刑務員の試合で「お前、どこ守ってるんだ、ピッチャーか、じゃ投げろ」って。実際に投げたら1-0で勝って「じゃ明日から練習に来い」って、プロレスラーになったんですよ。

 

王国:それは珍しいケースですね。

 

マツダ:それが'56年6月で、吉原功(後に国際プロ代表)さん、芳の里(後に日本プロ代表)さんに練習をつけてもらってね。 吉原さんに毎日、アマチュア(レスリング)を教えてもらいました。夏に初めて巡業に付いて、リングを組む手伝いをして、その頃は相撲から入って来た人が多くて若手は一人きり。

 

志願は自宅へ出向き直接行い、そこで言われたのが野球の試合に出場しろという言葉。その後、入門許可を受けたということになります。つまり、マツダのプロレス入りは1957年ではなく1956年6月ということになります。

 

しかしながらその入門許可までの経緯は本当に珍しいものです。「こいつはすぐやめてしまうだろう。でも野球あるから明日だけ来させるか」くらいだったのか?それとも一目見た瞬間、若きマツダに何かピンと来るものがあったのか?力道山の意思はもはや謎ですが、まさしく類稀なるプロレス入りとなったわけですね。

 

かくして正式に日本プロレスへ入門したマツダ。ここから長いプロレス人生を歩むことになるわけですが、相撲出身者が多かった当時の日本プロレスにレスリング出身である吉原功がいて、のちにマツダのプロレスの基となるレスリングテクニックが身に付けられたこと・・・これは大きかったと思います。このあたりには運命を感じられずにはいられませんね。

 

そして今だ謎が多いマツダのデビュー戦に関しては以下が話されています。

 

王国:日本プロ時代に試合はされているのですか?

 

マツダ:'57年に福井で比嘉敏一さん(力士出身)と初めて試合に出て、座間空軍基地で羅生門綱五郎さん(身長203センチ)、横浜のフライヤージムでユセフ・トルコさんと合計3試合こなしています。

 

王国:確か日本プロに在籍中、沖縄で空手家の挑戦を受けたこともあると聞きました。

 

マツダ:そんなことも知ってるの(笑)。'57年1月に那覇で巡業が3日間あって、こっちもバリバリだった頃ね。それで空手家が力道山に挑戦してきて、野球場かな、1万人は入るんだよ。それで「小島、お前いって来い」と言われて「ハイ、いって来ます」。 それでリングの上で皆が観てる間に30秒くらいで決めちゃって控室に帰ってきたら、いきなり力道山からビンタもらった。(下記の※に続く)

 

1957年に試合を行ったというマツダが王国からの問いにより「1月に沖縄で空手家の挑戦を受けた」と答えています。インタビュー内容から、1957年内に初戦をしたのはまちがいなさそうですが、ならば年の始め、この1月の空手家との戦いが比嘉敏一、羅生門綱五郎、ユセフ・トルコらの試合より早く行われていたことになると思われます。

 

ということで1957年1月に沖縄で行われた日本プロレスの興行を調べてみたところ1957年1月4日から2月1日まで「力道山渡米壮行プロレス大会」というシリーズが行われていました。おそらくこの最中にマツダと空手家との試合が行われていたと思われます。しかしながら、ときは沖縄が返還される15年も前の話。正確な日時、場所、対戦相手は調べる術がなくわかりませんでした。

 

かくして、この試合がデビュー戦になる可能性が高いですが、言ってみれば飛び入りとの異種格闘技のようなこの戦いを正規のプロレスデビュー戦と見てよいのかどうか・・・インタビューで問われるまで語っていないところを見ると、マツダ自身も正式なデビュー戦とは認識していないようにも見受けられます。

 

しかし、こういった試合に出れる状態であったということはデビュー戦は間近だったと考えられなくもありません。なのでここは「1月中には正式なデビュー戦が行われた」と解釈することにしましょう。

 

ということでここまでをまとめると「1956年3月入門。1957年1月デビュー」ということでマツダはプロレスラーとしてスタートを切った、ということになります。

 

が・・・しかしその後、マツダは日本プロレスから退団してしまいます。インタビュー中にもあるようにマツダはこの空手家との試合に見事勝利するわけですが、試合後に待っていたのは力道山からの祝福ではなく強烈なビンタでした。一体、何があったのでしょうか?

 

マツダ:(上記※からの続き)誉めてもらえると思ったのに。「お前、なぜもっと時間かけてやらないんだ」って、それでカッときて飛び掛かろうかなと思った時に、豊登さんがバッと俺をつかまえて「関取(力道山)は嬉しいんだけど口には出さないんだ」って。そういうことが矛盾してるでしょ。そういうのが重なって、段々イヤになってきたんですね。それで自分の道は自分で開こうと・・・。

 

マツダ:(前略)力道山がこう言う訳。「プロレスラーになるには何か過去の名前がなければダメだよ。お前は、相撲に行け」って。18歳になったばかりで、二所ノ関部屋に力道山の後輩の若ノ花 (先代の大相撲協会理事長)がいるから「明日にでも行け」って言うんだけど、上下関係の相撲の制度が合わないからね。だから「自分でやっていきますから」と辞めてしまった訳。

 

マツダが日本プロレスを退団した理由を調べると"当時の日本プロレスの体質、体制が合わなかった"というのが多く出てきますが、まさしくそれが根本だったようです。それにしても力道山のいう"過去の名前がなければダメ"という、いわゆるバックボーンですね。確かにあった方が箔が付くかもしれませんが、これを後付けでやろうというのは現在では考えられないですね。力道山ならではの発想だったんだと思います。

 

さて、このようなことが原因で早々日本プロレスから退団するわけですが、しかし海外に出るのはこの退団直後の1957年ではなく1960年です。この3年の空白の期間、マツダはどうしていたのでしょうか?

 

王国:引き留めはなかったのですか。 

 

マツダ:芳の里さんも阿部修(後の国際プロ・レフェリー)さんも自宅に来たけど「一回、一人で海外へ出る」覚悟でした。それでコツコツ、練習して。吉原さんに「アマチュアを習って来い」って、早稲田大のアマレス部の道場や、笹原正三さん(56年メルボルン五輪金メダリスト)の所(中央大)に3カ月くらいいたり、空手もやって3年かかったね、海外出るまでに。

 

普通であれば「やめたヤツのことなんか」と日本プロレス側から相手にされないところですが、早くからマツダの才能に気がついていた吉原とは繋がっておりレスリングの練習ができる環境下だったことがわかります。加え自主的なトレーニング、そして空手も習うなど、この時期のマツダは海外でやるための下地を着々と作っていたのだと考えられます。もちろん海外遠征への資金を貯めるための苦労もあったでしょう。マツダにとっては大変な時期だったことが感じられますね。

 

こうしてマツダは1960年4月に海外へと渡ります。しかし行き先はアメリカではなく南米ペルーでした。マツダはなぜ、この地に遠征したのでしょうか?

 

マツダ:'60年4月13日に日本を出てペルーに。製薬会社の薬草栽培場の管理の仕事で、祖父が米国のコロンビア大学を卒業してペルーに渡っていたんです。会ったこともないのに飛行機で東京、バンクーバー、メキシコシティ、ペルーのリマに行ってね。それで祖父が迎えにきていて、到着する前に現地のプロモーターと契約してくれていました。

 

ペルーにいた祖父。この祖父の存在が、お金もなく言葉もわからないマツダにとって"渡りに船"となったわけですね。しかし日本人にとっては未知のプロレス領域だったペルー。そのペルーではどのような感じでプロレスを行っていたのでしょうか?

 

マツダ:メキシコとかスペインの選手が多くて、ルチャリブレみたいな感じもありました。現地では「ルチャドールでは初のハポネス(日本人)だ」って言うんでプロモーターも「もう切符がない」って驚いたくらいに会場に客が入ってた。(後略)

 

マツダ:リングネームはコヒマ(スペイン

語でJI〟は〝ヒ〟と発音)で現地には 7万人くらい日本人移民はいたけど「こんな大きな日本人はいない」って。 自分は素足で、これまでシューズつけたことはないよ。日本人は柔術、空手、柔道とかで靴をはかないイメージがあるから崩さないように。トランクスは黒とか青とか。試合では、まだロープに飛んだりの技術はなかったけど、ルチャリブレではなくキャッチと呼ばれていたね。(後略)

 

なんとこの地で後年までマツダを象徴することになる裸足に黒のショートタイツのスタイルが生まれていたんですね。しかも・・・今でこそ馴染みのある日本人ルチャドールですが、その祖がまさかヒロ・マツダだったとは驚きしかありません。

 

そして当時「ルチャリブレではなくキャッチと呼ばれていた」という、この話にも驚きです。我々プロレスファンがルチャリブレと聞くと「飛び技」と変換してしまうのはもはやサガですが、独特のストレッチ技が数多く存在していることも忘れてはならないことです。そのストレッチ技の発祥にはヨーロッパ説もあり、実のところ未だ不明な点が多く残っているのです。この時代にルチャリブレがキャッチと呼ばれていたなら、もしかするとヨーロッパから何かしらが伝わってきていた可能性があるのかもしれません。これは今後、歴史を紐解くヒントになっていくのではと思えました。

 

さて、当時のペルー、メキシコでマツダはオリエンタルな魅力で人気を集めていたため、試合は場所を移動しては連続で組まれる感じだったようです。しかし、故に肩を脱臼しながらも出場し続けなければならない状況にして、また言葉も文化もわからない未開の地はとにかく治安が悪く、反日感情も相当なものだったらしく大変だったようです。

 

その後、ペルー、メキシコを経て翌1961年8月。マツダはいよいよアメリカ本土のテキサス州ヒューストンへと渡って行きます。

 

ここではコジマ・サイトー、グレート・コジマを名乗ったとされ、テキサス州、カンザス州、ミズーリ州をデューク・ケオムカをタッグパートナーにサーキット。この頃にソラキチ・マツダ、マティ・マツダら日本人プロレスラーの先駆者に肖ってヒロ・マツダに改名したとされています。

 

こうして活躍の場をアメリカに移したマツダは1962年12月末からフロリダに転戦しシングル、タッグとタイトルを手にし本土で名を上げていきます。

 

1963年2月19日、フロリダ州タンパでエディ・グラハムからNWA南部ヘビー級(フロリダ版)を奪取した若き日のマツダ

 

NWA世界タッグ(フロリダ版)はデューク・ケオムカと組んで1963年6月6日フロリダ州ジャクソンビル、同年9月5日フロリダ州ジャクソンビル、1964年3月10日フロリダ州タンパ、1965年3月22日フロリダ州タンパと4度獲得している(画像は1966年凱旋時のもの)

 

そしてフロリダに転戦し11ヶ月が過ぎた1963年11月。ここでカール・ゴッチに師事し、3ヶ月間特訓。 ジャーマン・スープレックス・ホールドを習得した、ということなんですね。

 

でも、マツダはどのような考えでゴッチに弟子入りすることを決めたのでしょうか?

 

王国:カール・ゴッチ氏に弟子入りした理由は何だったのですか。

 

マツダ:彼が一番、決め技が凄いっていう評判だったから。それを覚えたくて弟子入りに行ったんだよ。それで試合を休んで3カ月間、やったんですよ。

 

王国:アメリカン・プロレスを実践していたのに、どうして対極的なゴッチ氏のレスリングを習いに行ったんですか。

 

マツダ:プロレスラーだってレスリング知らなければレスラーって言われないんじゃないですか。そのために行ったんだ。侍が腕を磨くのは、自分より強い人とやって巧くなるのと一緒だよ。

 

王国:すぐに入門を許されたのですか。

 

マツダ:行く前にね、ジャン・トリースという人がいてね。ニューヨーク州バッファローで'57、'58年にマーク・ルーインと組んでいたんだけど、彼に紹介してもらった。私が'63年11月、一番最初にカール・ゴッチに入門したんだ。

 

真似ごとでは意味がない。やるならば魅了された本家カール・ゴッチの下で基本からしっかりと。そして本物の技術を・・・まさに毒を食らわば皿まで。これがマツダの思いだったわけですね。

 

そして、あとに語っている「プロレスラーだってレスリング知らなければレスラーって言われない」「自分より強い人とやって巧くなる」にも、その思考が現れているのがわかります。日米問わず多くの門下生に伝えられていったマツダのプロレスに対する信念。これが「ストロングスタイルの原点」なのだと思いました。

 

ところでマツダのゴッチへの入門。この仲介役、紹介したとされる「ジャン・トリース」なる人物ですが、これは詳細がまったく出てこず。わかりませんでした。

 

一体誰なのか?この重要人物をなんとか明確にしたく調べてみます。ヒントは「ニューヨーク州バッファローで'57、'58年にマーク・ルーインと組んでいた」という点。となると、おそらくこれはジャン・トリースではなく「ドン・カーチス」というレスラーのことなのではないかなと推測されます。

 

ドン・カーチスは1950年代から1960年代にかけアメリカ東部地区で活躍。マーク・ルーインとタッグ戦線で活躍し、1958年7月と1958年12月にWWWF以前の東部地区タイトルであったNWA・USタッグ王座に君臨。このタイトルを巡りエディ・グラハム、ジェリー・グラハムとの抗争で人気を集め、カードは各地でドル箱だったといいます。正直なところ名を耳にしたことのないレスラーだったのですが、大学時代はレスリングで活躍し、その当時に大学に訪問したルー・テーズとエキシビション・マッチでスパーリングしたところエド・ストラングラー・ルイスにその実力を好評価されスカウトされてプロレス入りしたという本格派な一面も持ったレスラーだったそうです。そんなカーチスならゴッチと繋がっていてもなんら不思議はありません。マツダとゴッチの運命の橋渡しをしたのは、このレスラーでまちがいないと思います。

 

こうしてゴッチと出会い、いよいよジャーマン・スープレックス・ホールド体得となるのですが、そこはあのカール・ゴッチ。一筋縄ではいかず・・・そのトレーニングは相当に厳しかったようです。

 

王国:やはり技術的に驚きはありましたか。

 

マツダ:それは凄いよ。スタミナあるし朝、3、4時間走ったり彼を肩にかついだり、両足を取られ手で歩いたり。昼食後、納屋にリングがあって外は雪が降ってるんだよ、あそこは。そこでみっちり教えてもらった。関節技は足、ダブルリストロック、アンクルホールド、トーホールドと。今、木戸選手が使ったのを目にすると「あれも習った」って懐しい気分になりますよ。 ジャーマンスープレックスはゴッチさんから「ブリッジさえ完璧に出来れば簡単だ」と言われて、毎日、アゴがマットにつくくらいに練習しました。「後は相手を掴んで後ろに投げるだけ」と指導されました。

 

朝、3、4時間走る・・・たとえば朝の7時から走り出したとすると11時まで走っていることになります。そこから、加えて肩車で歩き、手押し車で進み、それが終わって昼食後に道場練習となっていたのでしょう。もちろんインタビューでのそれはかいつまんでの話。実際にはプッシュアップやスクワット、相手を持ち上げながら行うトレーニングなど、スパーリングに至るまでには他にもいろいろやったはずです。

 

そして「ブリッジさえ完璧に出来れば簡単だ」「後は相手を掴んで後ろに投げるだけ」と言われたジャーマン・スープレックス・ホールド。言葉こそ少ないですが、おそらく相当過酷なブリッジを行っていたのではと思われます。

 

こうしてゴッチの指導を受けた翌年1964年の7月11日。マツダはフロリダ州タンパでダニー・ホッジを破りNWA世界ジュニアヘビー級王座を獲得します。

 

マツダ:(中略)'62年は、12月28日にフロリダ州ジャクソンビルに行ってジェイ・ストロンボーって、インディアン・キャラクターのイタリア人選手と試合してね。'63年は、フロリダで試合し続けて11月かな、ゴッチさんの所に習いに行ったんだ。それで'64年、ジョージア州アトランタでやったりしながら、8月にダニー・ホッジがタンパに来た時にタイトル獲った訳。オクラホマに行って1カ月間やったけど「初めてホッジがベルト獲られた」ってお客さんが驚いた。彼は英雄だから。アマボクシングのゴールデングローブ・チャンピオンでアマレスのNCAAで負けなしだったからね。

 

ダニー・ホッジを破りNWA世界ジュニアヘビー級王座を獲得したマツダ

(尚、インタビューでは8月と語っているが正式記録は7月11日となっている。

詳細は以下のとおり。

 

1964年7月11日 フロリダ州タンパ ノース・アルバニースポーツオーデトリアム 

NWA世界ジュニア・ヘビー級選手権試合

60分3本勝負

ダニー・ホッジvsヒロ・マツダ

①ホッジ(21分 バナナスプレッド)マツダ

②マツダ(8分 ジャーマン・スープレックス・ホールド)ホッジ

③マツダ(7分 体固め)ホッジ

試合時間の秒数は不明。

この試合がマツダのジャーマン・スープレックス・ホールド初公開とされる。

※2023年8月11日 追加更新)

 

厳しいゴッチ・トレーニングが実を結び強豪ホッジを下してのタイトル奪取となったわけですが、このホッジとのタイトル戦あたりを境に初めてマツダの口からジャーマン・スープレックス・ホールドを使ったことがわる言葉が出てきます。

 

王国:当時の試合内容は?

 

マツダ:試合は今の1本勝負ではなく3本で、60分とか90分引分けもやったよ。そんなこと週4回くらいやっていたよ。相手が一緒だから接近したファイトになってしまう。お客さんの観たい試合が同じだった訳で、試合は今の日本のクリーンな内容みたいで、決め技はジャーマンスープレックスだった。

 

マツダが言うとおり強さがあってこそのプロレスラーですが、得てして観客、ファンを魅了し続けるのもまたプロレスラー。マツダのインタビューにあるように同じ対戦相手と長丁場を連戦でとなると懸念されてくるのはやはりマンネリ化・・・つまり、内容勝負も求められたのではないかなと思います。強さを見せつつ、技術、技で新鮮でインパクトのある試合を展開しファンを引きつけなければならない。その必要が感じられます。

 

そして、そんな中での必殺技です。ダニー・ホッジやルー・テーズ・・・他にも、当時アメリカにいた多くの強豪たちと渡り合うには「これまで誰も使ったことのない強力かつ決定的なフィニッシュ・ホールドしかない」と、この秘密兵器へ辿り着いて行ったのではないかなと考えられます。マツダにとってジャーマン・スープレックス・ホールドは自身の強さとプロレスの象徴であったんですね。

 

こうしてジャーマン・スープレックス・ホールドの使い手となり、ダニー・ホッジを下し実力を示したマツダは1964年3月より海外武者修行に出ていたアントニオ猪木と1965年11月末より合流。タッグチームとして活躍します。

 

タッグ結成後は快進撃を続け、翌1966年1月15日、テネシー州メンフィスでNWA世界タッグ(テネシー・アラバマ版)を獲得した

 

1966年2月3日、テネシー州チャタヌーガ・スポーツアリーナでマリオ・ミラノ、レン・ロシーと対戦するマツダとカンジ・イノキ

 

同じ日本人にして出身地も神奈川県横浜市鶴見区という同郷のマツダと猪木はタイトル戦以外でもタッグを組んで数多く試合に出場していました。プロレスの試合はもちろん、強さの追求、練習好きと、プロレスに関し多くの共通点を持つマツダと猪木。そんなふたりを象徴する写真が残っています。

 

テネシーにて、スパーリングを行う猪木とマツダ

 

こうしてよく一緒に練習をしていたというマツダと猪木。その激しさは周囲のレスラーが驚き引いてしまうほどだったといいます。そのシーンにある一節が思い出されます。

 

木村光一さんのブログ

 

日々是闘い。〈木村光一の独白〉

 

より

 

アントニオ猪木が語る“レジェンドレスラー”(4) ヒロ・マツダ

 

猪木「俺はその頃、沖識名さんから教わった技をベースに、割と天性の素質に頼ったレスリングをしてたんです。力もバネもあったんで、日本プロレスでは誰にもスパーリングで負けなかった。でも、マツダさんと練習してみたら、すでに彼はゴッチの門下生だったこともあって、俺が知らないテクニックをいっぱい持ってたんです

 

そして猪木の海外武者修行時代で唯一、マツダが猪木とのタッグにてジャーマン・スープレックス・ホールドを使用した試合結果があります。

 

1965年12月16日

テネシー州チャタヌーガスポーツアリーナ

タッグマッチ 60分3本勝負

カンジイノキ、ヒロ・マツダ vs ビリー・ウィックス、レン・ロシー

①マツダ(11分11秒 ジャーマン・スープレックス・ホールド)ウィックス

②イノキ組(試合放棄) ウィックス組

 

マツダと猪木は1965年11月末に合流していますが、その合流間もない12月に、猪木はそのシーンを目の当たりにしているのです。

 

「これがカール・ゴッチの下で修行したマツダさんの実力か・・・よし、スパーリングで技術を引き出して吸収し、さらに強くなってやるぞ!!」

 

と猪木は思ったのかもしれません。

 

一方のマツダも

 

「若くしてこれだけ強く練習熱心なのか・・・でも、おれにもアメリカでひとりでやってきたというプライドがあるんだ。まだまだ!!」

 

という、ライバルとして仲間として「負けられない」という思いがあったのかもしれません。そんなライバル意識からの切磋琢磨も、またストロングスタイルの源。マツダと猪木にエナジーを与えていったのかもしれません。

 

こうして1966年。日本人初公開となる「ジャーマン・スープレックス・ホールド元年」をいよいよ迎えます。

 

2へ続きます。

 

その「音」が聞こえるとき

どうも。流星仮面二世です。
 
ということで新シリーズです。ここでは、これまでに自身が体験した怖い話や不思議な話をご紹介していき、ご意見交換や謎解きなどができていけたらなぁと・・・そんな趣向でございます。よろしければお付き合いください。よろしくお願いいたします。
 
第1回目は中学3年の秋から冬にかけ体験した、ボクとある「音」との不思議なお話です。
 
あれは中学3年の秋。1987年の10月初旬のことです。
 
普通でしたら、この時期は・・・中3って受験で大変な時期なんですが、実はスポーツ特待で高校が早めに決まってしまっていたボクは勉強なんかはもうまったく・・・いやいや、失礼。お察しの通り、それより以前からやっていませんでしたけど、まあそんなわけで。この時期は勉強もせずひたすら夜更しするのがおもしろくて。とにかく夜な夜な、いろいろなことをしていました。
 
とは言っても夜遊びとか、そんなふうにどこか出掛けるというものではありませんでした。やることといえば夜遅くまでAMやFMのラジオ聴いたり、こっそり起き出してテレビの深夜番組視たり。その程度のことでしたが、これまでに経験したことのなかった深夜という未知の時間帯をひとりで過ごすのは、それはそれはおもしろかったのです。
 
そんな夜更しでしたが、実は一番やってたことはラジオ聴いたりテレビ視たりすることでもない「ノートに書き記す」という単純なものでした。
 
中学時代はずっと日記も書いてたのですが、その他にもプロレスのこととか好きな子のこととか・・・日常に思ったことや世の中の出来事とか、そういったものに持った感情、感想をいろいろ書くのがとにかく好きで、よくやっていました。思えば、ちょうど今のブログの原型みたいな感じでしょうか。本当、勉強はしませんでしたけど文章を書くのは好きだったので、ほぼ毎晩のように書いてました。
 
夜というのは不思議なもので、この文章を書くという動作が実に軽快に進むものでした。そんなこともあり、その夜もたくさん書いていました。布団に入って、うつ伏せになり・・・部屋の電気は消して、枕元に電気スタンド置いて照らして。その体勢で書くのが好きでした。挿し絵なども入れたりして、結構なページ数をそれはそれは書いてました。
 
今になって振り返ると、つくづく変なやつだったと思いますが・・・まあ、とにかくそんな感じで、その夜もバーッと、いろいろ書いてたんです。で、どれくらい経ったでしょうか?ふと気がつくと、遠くからバイクのエンジン音が聞こえてきたのです。時間は夜中の2時半くらいに差し掛かるところでした。
 
ボクの実家は、すごい田舎です。信号機も自販機もなく、あるのは田んぼと畑と山ばかり。当然、道も狭かったので夜中に車両が通るなんてことはもちろん、人っ気もありません。夜は真っ暗で、とにかく静かでした。
 
なので田舎のヤンキーが流しながらやる、いわゆるバイクで走りながらコールを切る音。それが遠くから聞こえてくるこというのはよくありました。そう、テレビの警視庁24時などでたまに見かける「ボォーンボボボォーンボボ ボンボンボーンボボ」っていう、あのアクセルを煽ってやるあれです。
 
最初は、その音だと思いました。しかし徐々にハッキリと聞こえてくると、それはコールの音ではなく「アイドリング音」だったんです。
 
ボクの兄は小さい頃から車やバイクが大好きでした。当時、高校生だった兄はバイトで買ったバイクを自分でチューンし、それでレースに出ていたくらいだったので、とにかくそっち方面にはめっぽう詳しい人でした。門前の小僧習わぬ経を読むとは言ったものですが、ボクもそんな兄と過ごしているうち、いつのまにかそっち方面にも結構な知識がついていました。なので、その聞こえてきたアイドリング音が原付のではなく、ちょっと排気量のあるやつというのは中学生ながらすぐわかったのです。
 
当時、同じ集落には高校生が兄を除いて3人いました。みんなバイク持っていたので、そうか。誰かが遊びに行ってて、帰ってきたんだろう。なんて・・・そのときはあんまり気にもせず、先ほどのノート書きの続きを始めました。
 
それから15分くらい経ったでしょうか?一段落し、ふと我に返ると・・・まだあのバイクのアイドリング音が聞こえていたんです。
 
「(なんか変だな?)」
 
そう思い、その音を集中して聞いてみることにしました。
 
すると・・・
 
「ボッボッボッボッボッ・・・」
 
という単なるアイドリング音ではなく、
 
「ボォンボッボッボボッ・・・」
 
という、アイドリングの中にアクセルを開く動作が少しだけ入っている音だったのです。それが、ずっと続いてたんです。
 
「(何をしてるんだろ・・・?)」
 
そう思って布団から出て、カーテンを開けて外を見てみました。

もちろん何も見えないんですが、さっきほどよりは聞こえるようになったので戸も開けて耳を澄ましてみました。するとその「音」は結構な距離から・・・遠くから聞こえてるということがわかりました。そして少しずつ大きくなっていくその感覚から、ゆっくりな速度ではありますが進行方向はこちら向きだというのもわかりました。

こうして近づいてきた「音」は、やがて進行を停止したかのように一定音で聞こえ始めました。そこは家から南側の、ちょうど集落の入り口あたり。家から6、700メートルくらい先のところのようでした。
 
「ボォンボッボッボボッ・・・ボォンボッボッボボッ・・・」
 
まちがいありません。確かにバイクの音です。でも、その聞こえ方は不思議なものでした。そう、地上からの排気音というよりは、空から・・・いや、なんて言えばいいのでしょうか?空までは高くない位置なのですが、こう空中を介して広い面で伝わってくるような?ちょっと不思議な感じの聞こえ方だったのです。
 
やがて「音」はゆっくり、本当にゆっくりと遠ざかり始めました。だんだんと小さくなっていき、少しずつ遠ざかっていき・・・やがて完全に聞こえなくなりました。
 
なんだったんだろう?ただただ不思議な感覚のまま布団に入り、その夜は寝ました。
 
翌日。バイクに詳しい兄に聞けば何かわかるかな?と思い、昨夜の一部始終を話してみました。すると・・・
 
「乗り手が何をしてたのかはわからないが、アイドリングだけでそれだけ遠くからそんなふうに音が聞こえるってことはまずないな。よっぽど大排気量のがマフラー入れてるか、あとは直菅(マフラーから触媒などの消音装置をなくした状態のもの)にしているなら、条件次第では多少は離れていてもあるかもしれないが」
 
という見解でした。
 
確かに音というのは地形や建物の構造の影響で意外なところから伝わってくることがあります。なのであの「音」は距離や場所、構造など、音が届く条件が何かしらの理由で偶然に揃ってしまったため、遠くから聞こえてしまっただけ・・・だったのかもしれません。
 
でも、そういう条件下で聞こえたとしても「アイドリングで動いていた」という、その理由がわかりません。
 
「(バイクのエンジンをかけ、乗らないで押して移動すればアイドリングで移動できるけど、でもあんな距離を・・・そんな疲れるだけのこと普通しないよなぁ?あ、そうか!バイクを軽トラに積んで、そこでひとりがバイクに乗って荷台でエンジンをかけて!で、もうひとりは軽トラに乗って、ゆっくり走ればできるじゃないか!!ひとりは車、ひとりは荷台でボォンボォンって・・・しないよなぁ)」
 
アイドリングで動いてくるということ・・・それはあまりにも不自然で意味不明だったのです。あれは一体、なんだったのでしょうか?謎は深まるばかりでした。
 
それから約1ヶ月後。「音」の件もすっかり忘れてしまった11月のある夜。その日は学校で写生会があったので、描いた絵を家に持って帰り、遅くまで仕上げをしていました。
 
いやらしい話になりますが、こう見えても絵は得意な方で・・・小・中と毎年、展覧会に選出されては賞をもらうことも少なくありませんでした。なのでこういうときは気合いが入ってしまい、それこそ集中して時間が経つのも忘れて描いてしまうほどでした。
 
と、そんな感じで黙々と描き続け、どれくらい時間が経ったでしょうか?
 
「ボォンボッボッボボッ・・・ボォンボッボッボボッ・・・」

 ふと気がつくと、あの「音」が聞こえてきたのです。
 
「(ん!?・・・あれはいつかの!!)」
 
そう思ってすぐ立ち上がり、またカーテンを開けて戸を開けて「音」の方を見つめ、聴力を研ぎ澄ませました。
 
同じだ、シチュエーションも間も・・・はるか遠くから空中を介し、広い面で伝わってくるあの独特の聞こえ方も!!まちがいありません。あの日と同じ「音」です。
 
でも今回は、それが以前より少しずつ、少しずつ・・・大きくなっていくのがわかりました。そう、前回よりこっち方面に近づいて来ていたのです。
 
そして「音」は、あるところまで来ると、その動きを止めました。
 
「(音はしてるが移動は止まった。多分、消防団の詰所の先あたりだ・・・)」
 
その消防団の詰所は、家から約200メートルくらいの距離にありました。家からは遠くありませんが、ここからだと竹やぶや民家に阻まれ見えません。しかし火の見やぐらは見え、火事のときにはサイレンも鳴る場所なので自分の持っていた距離感にそう誤差はありませんでした。

あの辺に来てるのか・・・

しかし、まもなく「音」は動き出しました。今度は方向を変え、だんだんと遠ざかり始めていきました。
 
戻り出した・・・そう思いながら聞こえなくなるまで外を眺めていました。やがて完全に聞こえなくなった頃、時計を見ると3時近くになっていました。
 
「(おかしい。なんかおかしい)」

これまでバイクのアイドリング音と考えてきた「音」。しかし感じ始めていたのは、この世のものではないのではないか?という感覚でした。

しかし不思議なことに自分の中に怖さはありませんでした。知りたいのは正体・・・絵具をしまい、その正体を熟考しながら、その日は寝ることにしました。
 
次の日は、すっきりしませんでした。寝不足というのもありましたが、明るくなってから冷静に考えると、いろいろと不可解なことが溢れ出てならなかったからです。
 
「(同じ間隔でアクセルを開ける独特のアイドリング音。遠くから空中を介してくる独特の聞こえ方。通りすぎるのではなく向かってきて離れていく。午前2時半から3時という時間帯・・・出現は不定期だけど、忘れた頃に出てきては少なくとも2回あった。おれが早く寝た日なんかはどうなんだろう?鳴っているんだろうか?目的は何なんだ?)」
 
わからない。まったくわからないのです。バイクならどうなのか?この世のものじゃなければ何なのか?日々いろいろなことを考えてみましたが、何もわからず・・・こうして日が経っていくと徐々に「音」の記憶は薄れていき、またも忘れていくのでした。
 
それから2ヶ月経った、年も開けた2月。その日も夜、布団の中でノートを書いていました。
 
そしてそれは、ひと通り書き記し、そろそろ寝るか・・・と電気スタンドを消し、目をつむりウトウトし始めた頃でした。

「ボォンボッボッボボッ・・・ボォンボッボッボボッ・・・」

「(・・・れ・・・?)」

「ボォンボッボッボボッ・・・ボォンボッボッボボッ・・・」

「(あれ・・・?あれは!!)」

そうです。あの「音」が聞こえてきたのです。

急いで起き上がり、カーテンを開けて戸を開けて、以前と同じように「音」の方へ目を向けました。
 
それは以前と同じように遠くから聞こえ、ゆっくりと近づいてきました。時間をかけ、少しずつ近づいてきて、そして・・・やがて「音」は前回止まった消防団の詰所のあたりに差し掛かりました。
 
しかし方向は変えず、もう少しだけ近づくと、そこから変な?動きをし始めたように感じたのです。遠ざかることなく近づくことなく。でも止まってるわけでもなく・・・何か横に動いているような?そんな感じに聞こえていたのです。

「(もしかして、これ・・・)」
 
ボクは以前には感じなかった、得体のしれない違和感にとらわれました。もしかして「音」は・・・いや、そんなはずは・・・

でも、それは「音」がにわか考えられない方向から聞こえてきたことでハッキリしました。
 
にわか考えられない方向。それは・・・
 
ボクの実家の側面には車がやっと1台通れる幅の細い一本道があります。その道は家の前後に延びており、後方はボクの実家と隣家が家に入るためだけにしか使われていない、いわば実家と隣家の専用道路のような道なのです。
 
それでもその道は、まだ家まで入るのに使われているだけマシなのです。問題は家より前方に延びている方の道です。
 
ここは後方より道幅が狭く、車両なら軽自動車が通るのがやっとです。そして、その道から入れる家もないので、もはや近隣住民が歩行や自転車ですら通ることのない"沈黙の道"なのです。
 
なので地元はもちろん、土地勘のない、まったくここのことを知らない人が「たまたま通る」ということは絶対にありえないのです。もし通るということがあるとするならば、ボクの実家か隣家に用があって来た人が「意図的に通る以外、通ることのない道」なのです。
 
「音」が右折してきた道は、その「意図的に通る以外、通ることのない道」だったのです。

「音」は曲がってきたのです。消防団の詰所の先を左折し、そして右折し、その道へ入って来たのです。
 
「(マジか!!)」
 
やがて「音」は、その道に沿って鳴り出したました。それはまるで母親が乳母車を押すような速度・・・少しずつゆっくりと、まっすぐこちらに近づいてきたのです。
 
「ボォンボッボッボボッ・・・ボォンボッボッボボッ・・・ボォンボッボッボボッ・・・」
 
「音」は淡々と進み、やがて家から約20メートル先に見える、道が竹やぶと荒ら屋から生え出た木々で覆われたトンネル状のところから聞こえるようになりました。

そこは、夜はまさに漆黒。月夜でさえ真っ暗で何も見えないところです。その暗闇の中に、あの「音」は今いるのです。
 
「ボォンボッボッボボッ・・・ボォンボッボッボボッ・・・ボォンボッボッボボッ・・・」
 
刻一刻。さらに「音」は近づいてきました。しかし怖さはまったくありませんでした。むしろこれだけ自分に疑問を投げかけた「音」が近くまで来ていて、ついに正体を見れるという、その気持ちのみがいっぱいだったのです。

「ボォンボッボッボボッ・・・ボォンボッボッボボッ・・・ボォンボッボッボボッ・・・」

これだけ近ければわかります。今、出てきています。竹やぶから出てきます。もうこの距離なら、もう絶対に見えます。

しかし、それはまったく予測できない事態でした。

「(な、なんだこれ・・・いないぞ!!)」
 
「音」こそ近づけど、そこに姿はありませんでした 。バイクのヘッドライトのような光も、もちろんありません。暗闇から出てきたのは、あの「音」だけ・・・だったのです。
 
「(これはぁ・・・)」
 
しかし「音」は、そんなボクの気持ちなど知る由もなく近づいてきます。ゆっくり、ゆっくりと・・・そしてとうとう、その距離わずか6、7メートルあまりという家の角のところまで迫りました。
 
「ボォンボッボッボボッ・・・ボォンボッボッボボッ・・・ボォンボッボッボボッ・・・ボォンボッボッボボッ・・・ボォンボッボッボボッ・・・」
 
「音」は来ました。もはや位置もわかりました。なのに・・・何も見えません。ボクには何も見えないのです。見えたのは「音」だけ・・・だったのです。
 
その後、来た道を戻るように「音」は引き始めました。ゆっくりと、少しずつ・・・あの竹やぶを抜け、その先へ。「音」はだんだんと小さくなり、やがて聞こえなくなったのです。

ボクはそのあと、しばらくその道を見つめていました。理由はわかりませんが、何か切なさにとらわれて・・・その道を見つめ続けていたのでした。
 
この1ヶ月後、ボクは中学を卒業。その後、高校、社会人と・・・あれから約35年が経ちました。しかしあの日以降、あの「音」がボクに聞こえたことはありません。
 
ずいぶん時間が経ちましたが、今でもたまに「あれは一体・・・」と考えることがあります。
 
遠くから聞こえ始めて、4ヶ月。近づいては引き返し、また近づいては引き返し、ついには家の前まで来た「音」。あの「音」は何だったのだろう?何のために来たのだろう?何を・・・伝えたかったのだろう?

結局、何もわかりませんでした。でも・・・「音」はボクの住んでる集落を知ってて、それで来ていたような、そんな気がするのです。「音」は、この地に所縁があった何か・・・だったのかもしれません。
 
不思議な、とても不思議な体験でした。
 

愛をとりもどせ

どうも!!流星仮面二世です!!
 
さあ、というわけでございましてですね、今回は6月11日に茨城県の"かみす防災アリーナ"で行われました「NEW JAPAN ROAD ~ Road to STRONG ~」観戦してまいりましたので、その模様をお送りします。
 
さて、それは4月某日。
 
「新日本、6月に茨城来るけど、行く?」
 
と流星仮面三世こと息子へ声をかけます。
 
高校を卒業し、この4月から社会人となった三世。高校時代は部活とコロナ禍という状況下だったのでプロレス観戦は自粛。今年の1.4東京ドームまで3年あまり会場へは行かなかったのです(プロレスの風が吹く場所で)
 
それこそ最後の地方観戦は2019年4月13日に茨城県のつくばカピオアリーナで行われた「Road to レスリングどんたく 2019 開幕戦」(平成最後の家族観戦!!)で、もう4年も前。いろいろ重なって不遇なときを過ごしてしまいましたが、今はもう部活はもちろんないし、新型コロナもかなり落ち着いてきたから久々の地方観戦にはさぞ歓喜を上げるだろう。と、思いきや
 
「明日の両国(この日は4月8日のサクラジェネシスでのオカダとSANADAのIWGP戦の前日)の結果によるかなぁ・・・でも行く、かなぁ」
 
という、なんとも微妙な返事が・・・
 
そう三世、この4年あまりでプロレスの他、いろいろなスポーツに興味がわき趣味とするようになったのです。好きなものはNBA(ご存じアメリカのプロバスケットボールリーグ)とMLB(大リーグ)。日本のプロ野球だとソフトバンクホークスがお気に入りで、さっそくのお給料で大型テレビを買い込んでは部屋で日々観戦しては満喫しているのです。
 
今でももちろんプロレスも見ていてオカダも好きです。が、他のスポーツのおもしろさに気づくとプロレス自体への情熱は以前よりはやや薄れてしまった感じなのです。
 
「(試合は)ずっと追ってはいるんだけど・・・」
 
とはいうものの、やはり以前ほどではありません。他のスポーツへの興味が増したこともありますが、加えて現在の新日本プロレスの流れにおもしろさを感じられなくなってしまった、そういった感情が隠せない感じでした。
 
そういや、今年の1.4の東京ドームも声出しオーケーながらついに一言も発しなかった。格好は私服で応援タオルすら持ってなく、プロレス観戦にして被ってる帽子はモロMLBのだったしな・・・
 
「シャツとかサイズ合わなくなっちゃったからね」
 
しかしながら三世は、もう何年もプロレスグッズには手を出していません。NBAやMLBグッズは海外からも取り寄せるほどなのに・・・

でも、まあよろしい。とにかくキミも社会人。働くようになったんだから、理由がどうあれプロレス行くとなったからにはチケット代はもらうぞ。さあ、あ、さあさあ。
 
すると、ニコ~っとする三世。な、なんだそれはぁ・・・?まさか得意の「しれ~っと」で出してもらっちゃおうって算段かぁ!?
 
でも、いやぁわかるぜ。車も買ったし、スマホ代もあるし友達とも遊ぶからキツイんだよな。社会人になり、これまで知らなかったことが負担になっていくんだ。金はなく、時間と体力があるのが若き頃ってもんさ。だから・・・特リンのチケット8,500円、出してやろうじゃないか。
 
ただし!!今回の観戦でプロレスグッズを身につけていかないんだったら話は別だ。その場合はチケット代は耳そろえて払ってもらうぞ。さあ、三世どうする!?
 
「うーん・・・」
 
こうして当日。そろそろ家を出ようかと声をかけると、シャツこそ普通のTシャツでしたが、三世のその頭には「CHAOS」の文字が燦然と輝くなつかしの帽子が!!
 
そうこなくっちゃな!!最近お気に入りのサンディエゴ・パドレスやレッドソックスの帽子よりよっぽどお似合だぜ。では行くぜ、神栖!!
 
ということで、今回の会場となる場所をご紹介したいと思います。まず茨城県神栖市ですが、ここはJリーグの鹿島アントラーズで有名な鹿嶋市に隣接している、茨城県でも最東南に位置する市なんですね(この市もアントラーズのホームタウンとなります)
 
特色としては鹿嶋市と連なって広がる、県内で最大の工業集積を誇る鹿島臨海工業地帯の存在です。その企業数は約160社という壮大な規模。有名どころを上げるとエーザイ、花王、日本製鉄、そして大型タンカーの往来とコンビナート群が圧巻の鹿島石油、東京電力・鹿島火力発電所と、大企業が名を連ねます。
 
かみす防災アリーナは、そんな神栖市にある神栖中央公園内に2019年6月に総工費170億円を掛け防災拠点として作られた施設なんだそうです。館内にはこの体育館の他、プール、トレーニング室、音楽ホール、入浴施設、ショップなどがあり多目的施設としてかなりの充実性が見れます。デザインもかなり斬新で、建物としては他に類を見ない素敵な外観となっています。ご興味ある方は見てみてくださいね(かみす防災アリーナ)
 
ということで、消えかかったプロレス愛は甦るのか!?試合です!!
 
第1試合 10分1本勝負
田口隆祐vs中島佑斗
 
これはいい試合でしたね。田口がお笑いなく、意外なほど正統派のテクニックで攻めました。それに対応していく中島。髪型がアフロで独特なんですが(今は若手でも髪型自由なんですかね?)それはさておき、この中島選手はヤングライオン時代のですね、橋本をどこか彷彿させるんですよ。随所に格闘技の技術入ってる動きしていて、またそれが真っ直ぐで。先々楽しみな選手が出てきたなと思いました。試合中の間でうぉー!!って声出してましたが、そんな間はいらないですよ。もったいない。もっと淡々とファイトすれば、またちがったファン層がつくと思います。楽しみです。
 
第2試合 20分1本勝負
本間朋晃、真壁刀義vsボルチン・オレッグ、大岩陵平
 
実は今回、一番見たかったのがこのオレッグ選手でした。1.4で見まして、興味が湧きまして、近くで見てみたいとずっと思っていたんです。

今回は最前列だったのでかなり近くで見れたのですが、出てきたとたん三世とハモったのが
 
「下半身、すげぇ・・・!!」
 
でした。
 
もちろん上半身も僧帽筋から首回りから肩、腕。とんでもなくスゴいんですが、目が行くのは下半身ですね。とにかくこの大臀筋から大腿四頭筋がですね、ものすごい大きい。筋肉が太いんですよ。もうボクら親子は口あんぐりでした。
 
コーナーに立つオレッグ。その肉体と佇まいは、どこかカレリンを彷彿させる。早くも貫禄十分だ
 
で、オレッグ。プロレスなんですが、デビューが今年の4月の2日ということなので仕方ないのかもしれませんが、プロレスは普通のヤングライオンのそれと同じでした。

そう仕方ない・・・のはわかるんですけど、ちょっとそれではもったいないかな~と・・・どうせならレスリングカラー全面でいいんじゃないんですかね?これだけの人材が他のレスラーと同じようにエルボーの打ち合いしたり試合中にうぉー!!って無駄に声出してやるようになってしまうのはもったいない。先々、今のレスラーと同じようにはなってほしくないなぁ・・・1.4の観戦記のときも書いたのですが、ダイナマイト・キッドのようなファイターになってほしいですね。本当、期待してますよ~。
 
あと、大岩選手。この選手もいいですね~。オープナーの中島選手は橋本ぽかったですが、大岩選手はどこかヤングライオン時代の船木を彷彿させますね。大岩も中島も、先々は海外遠征して凱旋してトップ戦線へと進んでいくんでしょうけど、なんというんですかね~。変わってほしくないなぁと、思いました。このカラーのまま進んでいって今の新日本の形を壊してほしい。新しいもの見れるようになるといいなぁと思いました。
 
第3試合 20分1本勝負
タイガーマスク、マスター・ワト、矢野通、後藤洋央紀vsディック東郷、SHO、高橋裕二郎、“キング・オブ・ダークネス”EVIL

これは、うーん、うーん・・・うーん・・・としか思えない試合でした。なんというんでしょうかねぇ・・・「うーん」なんですよねぇ・・・
 
第4試合 30分1本勝負
フランシスコ・アキラ、TJP、アーロン・ヘナーレvs外道、クラーク・コナーズ、ダン・モロニー
 
これはすごかったですね。アキラ、TJPとコナーズ、モロニーの攻防がとにかく激しかったです。外道とヘナーレはほとんど出番なし・・・というかそっちのけ。もはや視界に入ってない感じで4人で技の攻防をバチバチにやり合ってました。これは純粋にこの4人のタッグマッチが見たいという気持ちになりますね。熱くおもしろく見れました。
 
第5試合 30分1本勝負
オスカー・ロイベ、YOSHI-HASHIvsゲイブリエル・キッド、アレックス・コグリン
 
久々にゲイブリエル・キッドを見ましたが、いいですね。以前よりエッジが増している気がします。そのキッドとアレックス・コグリンのタッグはチームワークがよく、ゴング前の入場からYOSHI-HASHIを場外で奇襲、粉砕。ロイベを孤立させ攻めます。しかもこのロイベへの攻めが一切妥協なくものすごい。半ばかわいそうにすらなってくるくらい激しいものでした。しかし、これがロイベを引き立たせます。反撃では2メートルという長身からのカウンターのハイキック。そして3度目のトライでやっと成功したボディスラムは大声援となりました。試合もそうでしたがヤングライオンであるロイベの"頑張り"が観客席を捉えていて、引き込まれる試合でしたね。このロイベという選手、今後の育ち方次第でおもしろい存在になりそうです。

第6試合 30分1本勝負
YOH、石井智宏、棚橋弘至、オカダ・カズチカvsエル・デスペラード、成田蓮、海野翔太、天山広吉
 
さて、ここまで落ち着いて試合を観戦していた三世。しかしこの試合は赤コーナー側の真後ろの特リン最前列にて、久々に間近でオカダの姿を見る形となります。
 
入場からコールでのレインメーカーポーズ。しかし、もはや冷静な三世。今年の1.4でも、ついに声を発することがなかった。まさか、今日もなのか・・・?あの日、あのとき、あのプロレス。なぜそんなに静かなんだ?あんなに好きだったオカダがこんな近くに、目の前にいるのに・・・(73億人の中のふたり)
 
もう三世にとってプロレスは、オカダは遠い日の花火になってしまったのでしょうか?

しかし、先陣をかって出てからしばらくエプロンにもたれ出番がなかったその時間帯。長く見つめていた男の背中から発せられた何かに、眠れる獅子が目覚めたか!?
 
その背中が、三世に何かを!?

それはこの日、2度目の出番となったオカダのリングインを目にしたときでした。
 
「オカダぁー!!!!!」
 
沈黙を守っていた男の突然の咆哮!!まさに爆風のごとく会場内に響き渡るそれは、4年ぶりに聞く三世渾身のシャウトでした。そして放たれしオカダのドロップキックに腕を振るい歓喜するその姿・・・
 
そうだ!!それを待っていたんだ!!
 
NBA、MLB、ソフトバンク、よく見ていろ。これがプロレスのパワーだ!!プロレスファンは、絶対に還ってくる!!んだよーんぉぉー!!

今は IWGP王者ではないけれど、三世は心のどこかで返り咲いてくれることを願っているはず。またいつか、あの12回もの防衛ロードを果たした頃のオカダの姿を見ることを願っているはずです。その願いが叶う日が来ることを、そして王者へ声が枯れるほどの大声援を送れる日が来ることを・・・願っています。
 
第7試合 30分1本勝負
TAKAみちのく、DOUKI、金丸義信、タイチvsBUSHI、高橋ヒロム、辻陽太、鷹木信悟、SANADA、内藤哲也
 
さて、メインイベントです。IWGPの王者となって初めてSANADAを見ました。その姿には、まだちょっとベルトに負けているかな?という感は否めませんでしたが、まだまだこれから。器用で万能。他のレスラーとは混ざらない個性のあるプロレスをするレスラーなので戦いで王者としての格を上げていって、このモデルのIWGPはSANADAというくらいになるよう、がんばってほしいですね。

ということで振り返ってみますと、この日は今年に入ってから見られるようになったノアや全日本との交流はなく純粋な新日本の戦いだった、ということで自分にとってはすごくおもしろかったです。特によかったな~と感じたのが先にも書きましたヤングライオン勢の戦いぶりでした。現在のヤングライオン、近年稀に見るいい選手が揃っていて、ちょっと80年代の新日本のヤングライオンを彷彿させるような、本当に今後が楽しみと感じることができるものでした。

一方のベテラン勢も、SANADAは今では使う人もいそうでいないドロップキックの連射を見せロスインゴを蹴散らし、真壁はトップロープからニードロップ、棚橋もトップロープからのハイフライ・フローと地方とは思えない豪華なフィニッシュを繰り出しては会場を賑わせて楽しませてくれました。やっぱりプロフェッショナルなんだな~と、感無量となった次第です。

ということで久々の地方観戦はすごく楽しかった、のですが・・・冒頭でも書きましたが、正直なところ、この2、3年で新日本から遠ざかってしまったファンは三世だけではなかったのではないかなと感じています。

それはなぜなのでしょうか?やはりコロナ禍の影響があったからなのでしょうか?

確かに、それは大きかったかもしれません。でも、それだけではない何かの原因が、現在の新日本には少なからずあったのではないかなと思えてならないのです。それは、たとえば人気選手がいなくなったり、ファンが、いやレスラーさえも望んでいない展開、方向にどんどん向かっていってしまったり・・・そんな、以前のようにファンがのめり込めない、楽しめない原因が発生してしまったから、だったのではないかなと考えてしまうのです。

でもプロレスそのものがおもしろければ、離れても必ずまた還ってくるはずです。そう、離れたファンは、本当は離れたのではなく望んだものを待っているだけなのではないかなと・・・そう思うのです。今回はそれを特に強く感じました。

他団体との交流。新しい選手の台頭。いいことです。でも一番はやっぱり、プロレスはおもしろくなければならない!!ということです。そんなプロレスに出会いに、また行こう!!

最後まで、ありがとうございました。