ジョルジュ・ビゴー展 -碧眼の浮世絵師が斬る明治-
明治の文明開化の前後、日本が大きく変化する時代。
ジョルジュ・ビゴーの風刺画を見ると、
今とそれほど変わっていない感じがした。
おそらく、明治のこの頃から日本人は変わっていないのだろう。
元々西洋人のジョルジュ・ビゴーから見れば、
西洋化しようとする日本人は滑稽であり、
またそれ以前の日本が好きだった彼からすれば、
西洋化はとても残念なことだったようである。
日本人ってなんだろうと考えるとき、
この明治の時代から以後と以前で2種類の日本人がいるように思える。
明治以降の日本人像は、
なんとなく空洞化しているような感じがある。
よりどころが無いというか、核が無いというか。
ジョルジュ・ビゴーは三歩下がってというような、
古い日本人女性を愛していたようだ。
おくゆかしさ、と言えばいいのだろうか。
今の日本にはそのような人はあまりいないだろうし、
また、男の方もいくら立てても立たないような(笑)
そんな人が多くなってしまったのだろう。
歴史を学ぶことは大事だなと自戒を込めて思った。
ルーツを持たない自分達のような存在の方が、
世界的に見て異常なのである。
■ジョルジュ・ビゴー展 -碧眼の浮世絵師が斬る明治-
ジョルジュ・ビゴーの風刺画を見ると、
今とそれほど変わっていない感じがした。
おそらく、明治のこの頃から日本人は変わっていないのだろう。
元々西洋人のジョルジュ・ビゴーから見れば、
西洋化しようとする日本人は滑稽であり、
またそれ以前の日本が好きだった彼からすれば、
西洋化はとても残念なことだったようである。
日本人ってなんだろうと考えるとき、
この明治の時代から以後と以前で2種類の日本人がいるように思える。
明治以降の日本人像は、
なんとなく空洞化しているような感じがある。
よりどころが無いというか、核が無いというか。
ジョルジュ・ビゴーは三歩下がってというような、
古い日本人女性を愛していたようだ。
おくゆかしさ、と言えばいいのだろうか。
今の日本にはそのような人はあまりいないだろうし、
また、男の方もいくら立てても立たないような(笑)
そんな人が多くなってしまったのだろう。
歴史を学ぶことは大事だなと自戒を込めて思った。
ルーツを持たない自分達のような存在の方が、
世界的に見て異常なのである。
■ジョルジュ・ビゴー展 -碧眼の浮世絵師が斬る明治-
世界報道写真展2009
世界報道写真展は、学生の頃から毎年行っている。
どんなきっかけで行くようになったのか覚えていないのだけれど、
一度足を運んでから、毎年行くようになった。
今年は写真も凄かったけれど、
ガザの空爆のドキュメンタリーフィルムが凄かった。
あれはやられたなあ。
報道写真というと、どうしても戦争ものが多くなる。
悲劇がほとんどになってしまう。
報道の意義はやはり知ることだと言われるけど、
圧倒的な現実、未だにこのような殺戮が繰り返される情景を見ていると、
果たして知る必要があるのか疑問に思ってしまう。
個人の幸福を考えるなら、知る事が必ずしも良いとは限らないのではないか。
知らなきゃ幸せ、ということもあるではないか。
ふと、そんな考えも頭に浮かんだ。
真っ当に自分の生活を営み、人を、自分を大切に生きているのなら、
こうしたことも知ることは無いように思う。
そしてもちろん、裕福なことは享受して良いものなのだ。
このような考え反論はあるだろうし、
僕にできることはせいぜい考え続けることくらいだ。
ここに並べられた写真を眺めていると、
「人間」について考えざるを得なくなる。
そして、また、わからなくなる。
こうした悲劇の前で正当な理由は無いが、
それでも人間というものを肯定していきたいという思いは、変わらなかった。
たぶん、来年も普通に足を運ぶことと思う。
■世界報道写真展2009
どんなきっかけで行くようになったのか覚えていないのだけれど、
一度足を運んでから、毎年行くようになった。
今年は写真も凄かったけれど、
ガザの空爆のドキュメンタリーフィルムが凄かった。
あれはやられたなあ。
報道写真というと、どうしても戦争ものが多くなる。
悲劇がほとんどになってしまう。
報道の意義はやはり知ることだと言われるけど、
圧倒的な現実、未だにこのような殺戮が繰り返される情景を見ていると、
果たして知る必要があるのか疑問に思ってしまう。
個人の幸福を考えるなら、知る事が必ずしも良いとは限らないのではないか。
知らなきゃ幸せ、ということもあるではないか。
ふと、そんな考えも頭に浮かんだ。
真っ当に自分の生活を営み、人を、自分を大切に生きているのなら、
こうしたことも知ることは無いように思う。
そしてもちろん、裕福なことは享受して良いものなのだ。
このような考え反論はあるだろうし、
僕にできることはせいぜい考え続けることくらいだ。
ここに並べられた写真を眺めていると、
「人間」について考えざるを得なくなる。
そして、また、わからなくなる。
こうした悲劇の前で正当な理由は無いが、
それでも人間というものを肯定していきたいという思いは、変わらなかった。
たぶん、来年も普通に足を運ぶことと思う。
■世界報道写真展2009
ふつふつと、思い。
ふつふつとアイデアが沸き上がる。
いつもそういう風にあれば嬉しいですが、
むしろそういう時の方が圧倒的に少ない。
日常のたわいもないことを題材にして、
何かを書き出していくのもひとつの立派なアイデアではあるけれど、
そういうことを自分が欲しているのかどうかは疑わしい。
とりあえず、書き出してみる。
なにかにつけ、とりあえずやってみるということ。
そうすると、段々、自分の中に埋まっていたことが出て来たりする。
効率が悪いように思えるけど、
そうすることでやっと、自分の中のアイデアに出会うことができる。
コップの水が溢れるような時期は勢いで。
そうでない普段のときも淡々と綴っていきたい。
いつもそういう風にあれば嬉しいですが、
むしろそういう時の方が圧倒的に少ない。
日常のたわいもないことを題材にして、
何かを書き出していくのもひとつの立派なアイデアではあるけれど、
そういうことを自分が欲しているのかどうかは疑わしい。
とりあえず、書き出してみる。
なにかにつけ、とりあえずやってみるということ。
そうすると、段々、自分の中に埋まっていたことが出て来たりする。
効率が悪いように思えるけど、
そうすることでやっと、自分の中のアイデアに出会うことができる。
コップの水が溢れるような時期は勢いで。
そうでない普段のときも淡々と綴っていきたい。
マイケル・ジャクソンが欲しかったもの
子供の頃からずっと人前で歌い続け、たくさんのファンを獲得し、どんなものでも手に入る生活を手に入れた。普通の人から見れば、マイケル・ジャクソン程恵まれた人間はいないだろう。けれどもやはり、彼は徹底的に不幸だったのだと思う。すべてのものを手に入れたのに、なぜ彼は不幸だったのか。
マイケル・ジャクソンが本当に欲しかったもの。それは、一般的な子供らしい生活だったのだと思う。それはどんなにお金を稼いでも、手に入れられないものである。既に彼は、子供時代を過ぎてしまったのだから。
彼はそのことに抵抗するように、「大人にはなりたいくない」「僕はピーターパンだ」と言い続けた。自分が大人になったことは、認めない。だから、自宅に遊園地を作り、子供達を呼んで、一緒に遊んだ。彼は子供時代を取り戻したかった。しかし、彼と周りの子供達は、まったく違うのである。いくら彼が心は子供だと叫んだところで、彼の肉体は普通に大人なのだから。
幼児虐待だの、ゴシップに見舞われた一連のスキャンダルは、彼にとって不本意だったはずである。子供と一緒に寝て、何が悪い。みんな、子供の頃は、一緒の布団で寝たりしただろう。僕は子供だ。子供同士、一緒の布団で絵本を読んだり、じゃれあったりすることがなぜ悪いんだ。おそらく、彼はそのような思いを抱いていたと思う。
彼の歪みは、一般的には理解できないだろう。子供時代に大人に囲まれ、ショービジネスの世界で生きてきた彼は、普通の子供が学校に行き、遊び、学ぶ生活を一切してこなかった。そして、何でも手に入れることができるようになった時、彼が一番欲しかったのは、子供の生活を取り戻すことだった。しかし、どんなにお金があっても、過去は買えないのである。彼にとってこのことは、深い絶望だったと思う。
スーパースターというものは、実は不幸な存在である。自分を犠牲にし、大衆の幻想を一手に引き受けること。スターがいるということは不幸な構造で、絶対的なスターが居なくなったということは、不幸な構造が少し減ったのかもしれない。マイケル・ジャクソンのと同じ位置に立てる人間は今後現れることは無いだろう。最後のスーパースターと言って、差し支えないと思う。
僕は一連のスキャンダル報道は、何も伝えていなかったと思っている。これからも、たくさんの記事が出て来るだろうし、死亡原因についても、いろいろな情報が出てくるだろう。しかし、それを目にしてもほとんど意味がないことだと思う。スキャンダルという言葉で片付けずに、その問題の本質は何かをちゃんと見ること、そして、ミュージシャンとしての才能を正当に評価すること。この二つが大事だ。
マイケル・ジャクソンは明らかにポップミュージックシーンを変えた。その功績と、人間としての闇と。彼を重層的に捉え、その深みに触れようとするなら、そのどちらも避けては通れないだろう。彼程ポップスターの光と影を味わった人間はいないのだから。
マイケル・ジャクソンが本当に欲しかったもの。それは、一般的な子供らしい生活だったのだと思う。それはどんなにお金を稼いでも、手に入れられないものである。既に彼は、子供時代を過ぎてしまったのだから。
彼はそのことに抵抗するように、「大人にはなりたいくない」「僕はピーターパンだ」と言い続けた。自分が大人になったことは、認めない。だから、自宅に遊園地を作り、子供達を呼んで、一緒に遊んだ。彼は子供時代を取り戻したかった。しかし、彼と周りの子供達は、まったく違うのである。いくら彼が心は子供だと叫んだところで、彼の肉体は普通に大人なのだから。
幼児虐待だの、ゴシップに見舞われた一連のスキャンダルは、彼にとって不本意だったはずである。子供と一緒に寝て、何が悪い。みんな、子供の頃は、一緒の布団で寝たりしただろう。僕は子供だ。子供同士、一緒の布団で絵本を読んだり、じゃれあったりすることがなぜ悪いんだ。おそらく、彼はそのような思いを抱いていたと思う。
彼の歪みは、一般的には理解できないだろう。子供時代に大人に囲まれ、ショービジネスの世界で生きてきた彼は、普通の子供が学校に行き、遊び、学ぶ生活を一切してこなかった。そして、何でも手に入れることができるようになった時、彼が一番欲しかったのは、子供の生活を取り戻すことだった。しかし、どんなにお金があっても、過去は買えないのである。彼にとってこのことは、深い絶望だったと思う。
スーパースターというものは、実は不幸な存在である。自分を犠牲にし、大衆の幻想を一手に引き受けること。スターがいるということは不幸な構造で、絶対的なスターが居なくなったということは、不幸な構造が少し減ったのかもしれない。マイケル・ジャクソンのと同じ位置に立てる人間は今後現れることは無いだろう。最後のスーパースターと言って、差し支えないと思う。
僕は一連のスキャンダル報道は、何も伝えていなかったと思っている。これからも、たくさんの記事が出て来るだろうし、死亡原因についても、いろいろな情報が出てくるだろう。しかし、それを目にしてもほとんど意味がないことだと思う。スキャンダルという言葉で片付けずに、その問題の本質は何かをちゃんと見ること、そして、ミュージシャンとしての才能を正当に評価すること。この二つが大事だ。
マイケル・ジャクソンは明らかにポップミュージックシーンを変えた。その功績と、人間としての闇と。彼を重層的に捉え、その深みに触れようとするなら、そのどちらも避けては通れないだろう。彼程ポップスターの光と影を味わった人間はいないのだから。