四の宮
角力田外すもうでん(伏し矢田ふしやでん、福太夫ふくだゆう、浜宮殿はまみやでん)
大将軍森
明見(みょうけん)、上(かみ) の山、西光寺山と続く一帯の地名。神功皇后の一番上の大将軍が居住した土地。石組、井戸、池等が多く残っている。大将軍は武内宿祢ではないかと思われる。
東光坊
西国八十八ヶ所の霊場のひとつとして、寺院・末寺などの集った所。鎮座の大仏像を厚母に売り渡したり、寺の宝物を売り出したりして寺は荒廃。今は石組みや祠がわずかに残る廃所となった。この大仏さんのたたりで、吉母が貧乏村になったと言い伝えられた。この大仏は現在厚母大仏として知られている。
「吉母」 地名の由来考
応神天皇は福岡県蚊田(あぶた、正しくは、かた)で生まれたと言われると日本上代史(文学博士・原田常治著) により決定づけられているが、そんな事はなく、ただ蚊田神社の由来書一本のみで、外に足跡を遺す地名や伝承・神事など一切無いのは何故か。一方吉母は長門住吉神社、年中神事の第一番は吉母若宮神社祭礼であること(住吉神社史に依る) や、吉母の各所に神功皇后、応神天皇誕生にまつわる地名、足跡、伝承が残っている。
「上代日本正史」
古代日本正史がスサノオ/ヒミコの神話の解き明かしから神武天皇の即位までの時代であり、続編の上代日本正史では 神武天皇の統治、欠史8代、祟神、日本武尊、神功皇后、応神天皇までを書かれています。
神社伝承学の父・原田常治について
明治36年に千葉県に生まれ、講談社編集長を経て、独立して出版会社を経営しながら「気温の周期と人間という生物の歴史」をコツコツと研究していたという異色の人物である。そして、その歴史研究の延長線上に日本の古代史をみすえながら、記紀以前にあった古い神社の記録から調査を始め、記紀の創作の裏側の解明に本格的に取り組まれたのは実に70歳を過ぎてからであった。74歳で鬼籍に入られる数年の短い期間に余生の全力を注ぎ込まれ、『古代日本正史』と『上代日本正史』を完成させた。
記紀にある宇美、蚊田に比定される地にある蚊田神社に相当する現在の神社
日本書紀の『神功皇后摂政前紀』は応神天皇の誕生の地を「宇美(糟屋郡宇美町)」とするが、『応神天皇紀』には「筑紫の蚊田に生れませり」とある。筑紫の蚊田については谷川士清の「日本書記通証」などは筑後国御井郡賀駄郷(小郡市平方)とし、鈴木重胤は筑前国怡土郡長野村蚊田(糸島市長野)としている。古事記では、蚊田が宇美になったと言う。これらに基づき、以下の神社が生まれた。
宇美八幡宮 福岡県粕屋郡宇美町
神功皇后がホムタワケ命を生んだ場所として伝えている。現在も安産を祈願して参拝する人々が絶えない。
王子八幡宮 福岡県粕屋郡志免町
宝満また宝満山という地名のそばにある。字金明から遷宮したが、元宮で王子(ホムタワケ命)が生れたという説がある。
蚊田宮 福岡県三井郡北野町
カダの地名があり、神功皇后の出産の伝承がある。ここにも宝満宮がある。
宇美八幡宮 福岡県糸島市長野
蚊田の一つに比定、仲哀天皇の殯斂地もある。
若宮八幡宮 福岡県小郡市八坂
このあたりは蚊田(賀汰)郷と呼ばれてきた。
参考
山口県風土史では、
師宮に作る
誕生神社
祭神: 木花開耶姫命、彦火々出見尊
恵比須神社 誕生神社境内
祭神: 事代主命
弁天社 黒島神社
「若宮神社由緒に、弁天・黒島神と申二社は神功皇后異国への御つれ被遊候神と申伝候と見ゆ」