嘆きの壁(なげきのかべ、ヘブライ語: הכותל המערבי, アラビア語: حائط البراق, 英語: Wailing Wall)は、ヘデロ大王時代のエルサレム神殿の外壁のうち、現存する部分。神殿はユダヤ教で最も神聖な建物であった。紀元前20年間、ヘデロ大王によって完全改築に近い形で大拡張された神殿を取り巻いていた外壁の西側の部分であり、ユダヤ人は「西の壁」と呼んでいる。この部分を含め、外壁はその基礎部分がほぼすべて残されている。
紀元70年にユダヤ人による反乱(ユダヤ戦争)があり、ティトゥス率いるローマ軍により鎮圧される。この際、エルサレムは炎上し、神殿は破壊され西壁のみが残った。第二次ユダヤ戦争(AD135)により、ユダヤ教徒のエルサレム立ち入りは禁止されていたが、ミラノ勅令により4世紀以降、年一回、ヘロデ神殿崩壊の日にだけ神域(神殿の丘内)に入って神の祈り、神殿焼失と亡国を嘆き悲しむことが許されたが、イスラムによる神域占領後は禁止され、神域西側の現在地に移ったという(今、神域内はイスラム一色で占められ、ユダヤ教に関するものは皆無)。また近年のヨルダン統治時代(1948~67)にも許されず、ユダヤ人たちは、シオンの丘にあるダビデの墓に祈っていたという。ユダヤ人にとっての嘆きの壁とは神殿に代わる聖地であり、その前で神への祈りを捧げることは2000年にわたる伝統である。
第三次中東戦争の後1967年にイスラエルが東エルサレムも制圧、1900年にも及ぶユダヤ人の悲願はかなった。イスラエルによって嘆きの壁周辺のパレスチナ人民家とモスクは取り壊され、祈りの為の広場(Western Wall Plaza)が取って代わり、現在は周りにユダヤ人地区が広がっている。壁の右手は遺跡である神殿入り口アーチの残骸(土中に埋まっていた)と、観光用入り口の通路などになっている。基本的には鞆の地形は変わっていないと思われる。
まさに、梅ケ峠の砦(推定)はここを再現している。
参考