京都の松尾神社が典型であるが、本殿の後ろに岩壁が迫り、境内が八尺瓊勾玉の様な形式を想定するが、これがエルサレムの嘆きの壁を信仰しているのではないかと思われる。秦氏の信仰する神社、特に八幡宮について下関市の北浦海岸を中心に調べてみた。
下関市豊北町大字島戸の住吉八幡宮は半円形の社地に、崖の石垣を背にした社殿の配置は、正に梅ケ峠の砦や彦島八幡宮、松尾大社と似た形式となっていた。
住吉八幡宮と彦島八幡宮の南北線上の八幡宮などについて見ていく。
後年の元寇、弘安の役に創建された神功皇后神社は土井ヶ浜を見下ろす高台に御鎮座するが、本殿が同様な形式となっている。
以下、宇賀八幡宮、川棚の秦氏の神、松尾神社、吉永八幡宮、室津八幡宮、旧厚母八幡宮、旧萩尾八幡宮、蓋井八幡宮、吉見八幡宮、安岡八幡宮、富任八幡宮、秋根八幡宮、伊倉・豊神社、椋野八幡宮、生野神社、大坪八幡宮、六連八幡宮、内日神社も同様に背後の山を削るなどして、崖に迫っている。秦氏の神、福徳稲荷神社も山腹を背にして、響灘を見渡している。
福江八幡宮の本殿は平地にあるが背後の西方の響灘にある久留見の瀬を拝み、また東方の御旅所のバックに小高い土手(古墳)があり、二カ所を拝んでいる。その証拠にそれぞれ鳥居があり、元は別の神社であろう。
下関市大字永田郷にある塩田の鎮守である永田神社は、塩田の中央に鎮座する正吉八幡宮に梅ケ峠にあった厳島神社を合祀したものであるが、共に大宮司は有光家であり、秦氏の末裔であった。北方向の梅ケ峠の元大学キャンパスの土手(ホムタ又は帥の嶺)を信仰する為に平地にあると思われる。
岩清水八幡宮、鶴岡八幡宮は山を背後にして、巴形の境内をもっている。日本西門鎮守八幡宮、亀山八幡宮、北九州市門司区の甲宗八幡宮や八幡東区の乳山八幡宮、高見神社、対馬市の厳原八幡宮神社、美東町大字大田の土師神社も同様である。
長い参道や、御旅所までの長い道が高千穂のクシフル峰を象徴している。
参考
神功皇后を主祭神とする宮地嶽神社も同様に山に食い込んでいる。
国つ神、大物主神を祀る日本最古の神社と云われる大神神社も三輪山の麓に食い込む様に鎮座しているので調べてみたら秦氏関連の神社であった。第10代、崇神天皇の時代、全国に疫病が蔓延した。悩む崇神天皇の夢に、大物主が現れ、「わが子孫、太田田根子に我を祀らせよ。さすれば災いは収まる」と告げた。これが大神神社の由来で、太田田根子を調べてみると、秦氏だった。
京都の上賀茂神社も同様に山に食い込んでいる。やはり、賀茂氏も秦氏の支族であった。
比叡山の東麓に山王総本宮日吉大社があるが、山麓に食い込む境内があり、やはり秦氏が関わっているとの説がある。
太宰府天満宮は、明治維新までは「安楽寺」といい、天台宗の寺院であった。安楽寺の別当(現在の太宰府天満宮の宮司)は、代々菅原道真の子孫の家筋である高辻家(現在の西高辻家)が務めてきた。本殿は平地に鎮座してるが、この別当坊が山を背に建っている。ところで、摂社に秦氏系の綿津見社を祀っていた。
宇佐神宮は明確に山に食い込む本殿を持っておらず、平地若しくは山頂に鎮座する本殿の形式であることは、元々が秦氏系の神社では無かったことを物語っている。既に宇佐神宮に疑問を持った人は私だけでは無く、秦氏が信仰するより前からある古い神社であろう。
十一面観世音菩薩を本尊とする長谷寺が正に嘆きの壁(ホムタ)を信仰する秦氏系の寺と推測される。
秦氏の神社の見本である木嶋神社が同じ特徴を持っている。
室津八幡宮は摂社として若宮神社、菅原神社などが横並びに建っているが、背後に小高い人工の土手があった。
高千穂のクシフル峰
高天原から高千穂のクシフル峰に降りるとは、ヘブライ語で『アララト山の麓のタガーマハランからシオンの丘の向こうの墓にたどり着く』、つまりエルサレムの神殿の嘆きの壁に行くということ。高天原での生活から出発して色々苦労して入植地(嘆きの壁、信仰対象の神社)にたどり着くことを示唆する。鹿児島県、宮崎県にある様な具体的な場所がある訳では無かった。
多くの神社にある長い参道がこれを象徴しているかもしれない。したがって、秦氏の神社だけの特徴とは言えず、鳥居、狛犬と同様、一般に普及した神社様式となったのであろう。