秦氏の神社、松尾大社と梅ケ峠の比較 | 日本の歴史と日本人のルーツ

日本の歴史と日本人のルーツ

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祭神 大山咋神(おおやまぐいのかみ)、中津島媛命(なかつしまひめのみこと)
創建 大宝元年(701)、秦忌寸都理が勅命に奉じて創建
所在地 京都市西京区嵐山宮町3

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四条通の西の端、桂川にかかる松尾橋を渡ったところに、京都最古の社とされる松尾大社(まつのおたいしゃ)がある。社殿の背後にある約十二万坪の松尾山も含む。大宝元年(701)に秦忌寸都理(はたのいみきとり)というものが、松尾山の神霊を勧請して現在地に社殿を構え、知満留女という斎女に奉仕させたのが、この社の創建とされている。この神社は秦一族の氏神として栄えた。

『古事記』によると、大山昨神は近淡海国の日枝山に坐し、また葛野の松尾に坐す鳴鏑(なるかぶら)を用いるなり」とあり、近江の国の比叡山と松尾山を支配する神であったと伝えられている。また、この神は上賀茂神社の祭神・賀茂別雷神の父とされている。

津島姫命は市杵島姫命ともいい、福岡県の宗像大社に祀られている三女神の一神で、古くから海上守護の霊徳があるとされている。秦氏が渡来して来た時に渡海に協力してくれた海人族、宗像氏の守護神であり、やはり秦氏が信仰する宇佐神宮、石清水八幡宮の祭神の八幡三神(応神天皇、神功皇后、姫大神(宗像三女神))の一人、市杵島姫命でもある。

この秦氏の創建した京都市最古の神社と下関市の梅ケ峠の砦(元大学のキャンパス)を比較すると、共通の特徴は社殿の背後に絶壁の様な山を配していることである。

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後ろの松尾山に注目、本殿は絶壁に背をしている。

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さらに、境内敷地が巴か勾玉に似ている。

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室町時代の平安絵図、囲いの中が松尾神社、本殿の背後に壁か衝立が置かれている。これが嘆きの壁に相当するのか?

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梅ケ峠、中央校舎の右手、土手の麓

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梅ケ峠の元大学のキャンパスと校舎、応神天皇、秦氏の砦と推定している。後ろの土手の絶壁の様な斜面に注目している。巴型台地とホムタ(神殿の壁)の様な土手を持つ台地(広幡、ユダ族の丘陵)と見える

神功皇后が三韓征伐から帰国後、応神天皇をお生みになって後、付いて来た秦氏と共に最初に梅ケ峠のこの砦を建設した。後ろには信仰的な意味の土手「ホムタ」(ヘブライ語で解釈すると神殿の壁、応神天皇のホムタワケノミコトのホムタ)があり、これが松尾大社の本殿の後ろの山、松尾山に対応するかもしれない。松尾大社が山の神、大山昨神をお祀りしている秘密の一つとして、実は松尾山の絶壁を信仰しているのかもしれない。そう考えると市杵島姫命が一緒に祀られている理由も自然に理解できる。

下関の忌宮神社は平地、住吉神社は小高い山頂か平地、その他、有名な神社では伊勢神宮は麓から小高い山頂が神域、宗像大社、出雲大社は背後に直ぐは山は無い。上鴨神社は山腹、下鴨神社は平地にある。大神神社は三輪山を御神体としており、拝殿の後ろに山がある。これに対して秦氏の氏神について見てみる。伏見稲荷大社は山に登る途中に朱の鳥居が並ぶ。京都、八坂神社も東山の麓にある。宇佐神宮も麓から小高い山頂までが神域となっている。石清水八幡宮は小高い山腹にある。鶴岡八幡宮は山を背にしている。秦氏の氏神の神社に見られる小高い山腹、又は山を背後にするこの特徴は、他の神社にも見られないことは無いであろう。しかし、梅ケ峠の砦のように山を削って、後ろに絶壁的な山を作る様式は松尾大社に近く興味深い。


参考







下関の東門鎮護、住吉八幡宮神功皇后神社の境内の背後の絶壁

長い参道が高千穂のクシフル峰を象徴している。京都、松尾大社の参道は東山山麓の八坂神社までつなかり、互いに参道となっている。

以下、壁と丘陵からイスラエルが思いおこされる。

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神殿の壁(ホムタ)への信仰、嘆きの壁

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小高い山頂の神殿、ユダ王国の丘(広幡)の例

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山の麓の神殿の例

松尾大社の背後の絶壁について神社でも正確な云われを知らなかった模様であり、以下の様に説明していた。八幡宮では典型的な境内様式であるが、松尾大社では理由を伝承されていなかったようだ。2012年10月の台風17号や昨年の台風18号で裏山の10本以上の樹木が倒れ、国重要文化財に指定されている本殿の屋根の一部が損傷を受けた。現在の本殿は1397(応永4)年に建てられたとされ、屋根には繊細な檜皮(ひわだ)が使われている。「このままでは大きな被害が出かねない」と京都府教委文化財保護課の助言を受け、今年に入って本殿の真後ろにある樹木の伐採を始め、3月末に終えた。伐採の過程で巨大な岩肌があらわになった。竹内直道禰宜(57)は「なぜこんな危険な山の真下に社殿を構えたのか、以前から不思議だった」と前置きし「神様を招く場として、これほどふさわしい場所はなかったかもしれない」と語る。


酒多神社(福津市)が元宮