渡来人、秦氏と梅ケ峠 | 日本の歴史と日本人のルーツ

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秦氏の一族の居住地名としてよくあげられる名が、秦、畠、畑であろう。これをもとに、下関市の梅ケ峠の砦(推定)の居住者又は支配者が秦氏かどうか検討する。

国道191号線が通る梅ケ峠の砦(推定)の東西方向を地図で見ると、西方向には吉母地区の室津に通じる道(県道245号線)沿いに金畠がある。東の鬼ケ城山麓、旧北浦往還道(県道244)に奥畑(大字吉見上、近隣を畑と呼んでいる)地区がある。さらに、鬼ケ城山を越えて東方に目をやって見ると大畑(大字内日上)が見つかった。これは狩音山の北の石畑峠(これも畑)を越える県道40号線と県道34号線の接点で北浦海岸と豊浦宮を結ぶ内陸の道の途中となっている。南方の安岡地区周辺の防衛には旧北浦往還道(244号線)沿いに畑代(大字福江)がある。正確に直線上にある訳では無く、また正確な東西南北でも無いが、直交する十字形を成している。また、交点が鬼ケ城山頂付近となっている。

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西から東へ金畠、梅ケ峠、奥畑、大畑
北が石畑峠、南が畑代

北浦海岸に侵入した夷狄が陸路で豊浦宮に至る前に遮る関所として重要な地点として先の6地点が浮かぶ。この東西3地点と南北の2地点の畠や畑が秦氏の居住地かつ防衛拠点とすると、梅ケ峠の砦(推定)も秦氏の砦または秦氏の主人(応神天皇)の宮と考えられる。


参考






秦氏の拠点を訪れた。東西方向の拠点には古くからの農家が集住していた。南北の拠点は緊急時の拠点か、現在は無人地帯であった。

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金畠(かねはたけ)、吉母から梅ケ峠方向、左手に草場山、正面に古くからの農家が集住していた。ここは、金も産出したとか!住人のお話しでは、現在、金~さんと言う名前の家が何軒かあるとのこと!

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大畑(おおばた)、大字内日上から鬼ケ城山、近隣には古くからの農家が集住していた。

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奥畑(おくばた)、大字吉見上の公会堂から鬼ケ城山、近隣には古くからの農家が集住していた。

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石畑峠(いしばたとうげ)、県道40号線から西方向、左手の山道から尾根伝いに鬼ケ城山までトレッキングが出来る。

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字畑代(はたしろ)、大字福江から龍王山上宮

字畑代の代は城か?近くの字後山の済生会病院の敷地が昔から平らな原野で秦氏系の神社の境内の形式あったことを思い出した。また、字畑代と字後山の間の辺りがヤマジョウというらしいが、山城か?ここから西には響灘、北九州北岸、南には綾羅木川流域が見渡せる。また、豊浦の宮(長府)と吉母、梅ケ峠を結ぶ旧北浦往還道(県道244号線)の途上にあり、要衝の地であった。

東西南北に着目する理由
東アジア・中華文明圏においては、四神相応(しじんそうおう)と言うものがあり、北に玄武、東に蒼龍、西に白虎、南に朱雀という大地の四方の方角を司る「四神」の存在に最もふさわしいと伝統的に信じられてきた地勢や地相のことをいう。四地相応ともいう。なお四神の中央に「黄竜」(おうりゅう)、あるいは麒麟を加えたものが「五神」(ごじん) と呼ばれている。


追加

神功皇后、応神天皇時代の秦氏のみならず、多くの民族が日本に渡来したようで、古くは紀元300年より前からあったようで、シュメール人のペテログラフが下関で発見された。ここ彦島八幡宮の地は仲哀天皇、神功皇后時代からの防衛基地でもあった。真北の北浦海岸の北端の島戸に東門鎮護、住吉八幡宮が鎮座していた。

梅ケ峠の真南、永田郷の永田神社の宮司が秦氏の末裔であった。