下関にあるシュメールのペテログラフ(岩刻文字)と彦島八幡宮 | 日本の歴史と日本人のルーツ

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おそらく紀元前2500年から紀元300年代にかけてつかわれた古代文字が下関の彦島、杉田遺跡から見つかった。「杉田丘陵の岩刻文字は、シュメール文字や古代バビロニア文字などで刻まれていた。世界的に見つかっており、世界的な民族移動があったと考えられている。


参考

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彦島八幡宮に安置のペテログラフがある磐座、祟りを恐れ元の場所から移したもの。

下関市の彦島の杉田遺跡で岩刻文字、ペテログラフが1924年に発見された。杉田丘陵したの海岸神殿のものと見られる7個の岩の解読すると、以下のとおり。

{22D531A9-1C85-4C6D-9729-37699A7361F3:01}解読結果


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彦島、三菱下関造船所から出土

シュメール、フェニキア系の岩刻文字が続々と発見された。これらの文字が、古代シュメール・バビロニア起源の楔形文字であることは、綿密な国際的比較考証によって確認済みである。

もう一つ、山陰本線の下関から北に向かった沖合の島、角島には、これぞシュメールの紛れもない証拠というべき独特の積み石の「シュメール兼神殿」が発見されている。これは地元の人には昔からある当たり前の構造物で、古くから風や波で壊れたところの補修をするときには、わざわざ福岡県の宗像から海女たちを呼び、海中のだれも触っていない岩を引き揚げて長くこれを守ってきたものだという。










彦島八幡宮について

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仲哀天皇、神功皇后、応神天皇、仁徳天皇をお祀りしている。創建は800年前に宇佐神宮から勧進したものであるが、遡って、敷地の宮ノ原には仲哀天皇の伝説がある。

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彦島八幡宮そのものが縄文時代の漁撈民の遺跡の上に鎮座しており、彦島宮ノ原遺跡と呼ばれている。

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本殿の背後が土塁となっており、宮司に伺ったが云われが分からないほど古いものであった。仲哀天皇の熊襲征伐への基地として建設した砦かも知れない。ただし、敷地の形状からすると八尺瓊勾玉(巴地形、鞆地形)をしており、真北に梅ケ峠の砦(推定)があり、梅ケ峠の類推から土塁は神殿の壁(ホムタ)かも知れない。穴門の国の響灘側の守り、秦王国(応神天皇が王)の防衛砦を想像させられる。ここは関門海峡の入り口の守りに重要であり、想像はほぼ間違いなかろう。

真北の北浦海岸の最北端の豊北町の島戸に神功皇后創建の東門鎮護、住吉八幡宮があった。西門鎮護は関門海峡の亀山八幡宮と日本西門鎮守八幡宮となっていた。