梅ケ峠の砦(推定)の南北線について、南に彦島八幡宮があったので、北に延長すると豊北町の島戸に、住吉八幡宮が見つかった。この宮は海の神、住吉大神をまつって、東門鎮護として神功皇后が創建したとなっていた。この時の西門鎮護は筥崎宮であったが、のちに関門海峡に面した日本西門鎮守八幡宮と亀山八幡宮が西門鎮護を担当することになった。和布刈神社も西門鎮護の役を神功皇后から頂いている。
まさに、日本列島の東を南にしたこの世界地図に注目し、豊北町の島戸が東の端、東門とし、古くは北九州の筥崎宮、後の923年、関門海峡の二つの八幡宮を西の端、西門として国防体制を整えた。北九州については外国への窓口の為、隠すことが出来ないので、太宰府を中心とした公開防衛基地で侵略軍団を誘き寄せる戦略にしたのであろう。幾ら上陸して南下しても、よく似た地名には出会っても、ヤマトに到達出来ないことが答えであろう。
15世紀初頭、朝鮮の高官に東を下にした行基図(日本地図)をわざと渡し、東を南にした上記の世界地図を作らせたのは、必要最低限の防衛の為であった。すなわち、神功皇后(応神天皇)時代から後世まで、国防の司令部が梅ケ峠の砦(推定)であり、監視所兼防衛基地が長門城(鬼ケ城山)であった。ここが秦王国(穴門国)の首都であった。周防灘側の長府(豊浦宮)が公式の宮城で、防衛最前線の梅ケ峠が秘密の司令部(宮城)である。これは10世紀以降も継続し、元寇、弘安の役はこれで勝利した。15世紀も同じ戦略で上の世界地図を作成させたのである。ただし、梅ケ峠の砦がどの程度、司令部として利用されたかは不明である。
以上により、魏志倭人伝の時代に遡って、東西方向を南北方向へ90度傾けた日本列島の世界地図認識は、ヤマト政府が意図的に魏の使者に嘘の方角を教えたことが理解できる。邪馬台国の大和説が支持される。隋書東夷伝などでは正しく方向を認識していたが、ヤマト政府は常に嘘の行基図を見せて撹乱戦略を取って、正しい情報に固定させなかったと思われる。その結果、元寇時の元軍は北九州、長門付近のみをうろついたのであろう。
参考
【鎮座地】〒759-5331山口県下関市豊北町大字神田390 旧長門国 豊浦郡
【御祭神】住吉大神 神功皇后 應神天皇 仲哀天皇
【御由緒】
当神社は十四代仲哀天皇の御代(197)に神功皇后は三韓(高句麗、新羅、百濟)に出兵のみぎり、航海安全、海上守護神として、穴戸向津久の対岸、平保の地(今日も当地に字、平保台があり年に一度祭事が行わる。)に住吉大神を鎮座し東門鎮護(東の海上守護)とされた。この後、住民の移動とともに奈良時代の養老2年(718)、平保台の住吉大神は長羽山(馬城山・高壺山) の山頂に遷座された。今日も山頂に巫女屋敷という社地が残って土器や瓦が出る。高壺山の住吉大神と鬼の伝説は有名である。
【御祭神】住吉大神 神功皇后 應神天皇 仲哀天皇
【御由緒】
当神社は十四代仲哀天皇の御代(197)に神功皇后は三韓(高句麗、新羅、百濟)に出兵のみぎり、航海安全、海上守護神として、穴戸向津久の対岸、平保の地(今日も当地に字、平保台があり年に一度祭事が行わる。)に住吉大神を鎮座し東門鎮護(東の海上守護)とされた。この後、住民の移動とともに奈良時代の養老2年(718)、平保台の住吉大神は長羽山(馬城山・高壺山) の山頂に遷座された。今日も山頂に巫女屋敷という社地が残って土器や瓦が出る。高壺山の住吉大神と鬼の伝説は有名である。
注:三韓征伐に負けた時の防衛を考えたのであろう。帰還後に創建した住吉神社より若干早い創建となる。
注:関門海峡について、貞観2年(860)、紅石山の麓に日本西門鎮守八幡宮と亀山八幡が創建され、さらに長元年(923)に亀山八幡宮も西門鎮守に格上げしたことになる。同時期、北浦海岸側に生野神社と大坪八幡宮が創建さらた。
建久二年(1191)に豊田の郡司七代藤原種弘は、今日の社地字西の宮に宇佐八幡宮の御分霊を御勧請し往古より当地に御鎮座の住吉大神と合斎し、社名を住吉八幡宮と改め海上交通安全、海幸産業の守護神として、島戸村、附久野村、大窪村、肥中村、特牛村、荒田村、鳴滝村、堀越村八ケ村の総氏神として社殿を建立した。往古、例祭日には神官が拝殿の両方に座し、引受場の氏子に御神久米を渡し、御社田の耕作を引受けさせたとある。これは村々に御社田が多く今日に神田と言うのはこの社田から残った地名であると言う。
由緒書
博多の筥崎宮は延喜21年(921)、醍醐天皇が神勅により「敵国降伏」の宸筆(しんぴつ)を下賜され、この地に壮麗な御社殿を建立し、延長元年(923)筑前大分宮(穂波宮)より遷座したことになっている。この敵国降伏の御宸筆が、筥崎宮に伝存する第一の神宝であり紺紙に金泥で鮮やかに書かれている。来日して博多見学した外国使節に真っ先に見せて、挑発している。縦横約18センチで全部で三十七葉ある。社記には醍醐天皇の御宸筆と伝わり、以後の天皇も納めれられた記録がある。特に文永11年(西暦1274)蒙古襲来により炎上した社殿の再興にあたり亀山(かめやま)上皇が納められた事跡は有名。 楼門高く掲げられている額の文字は文禄年間、筑前領主小早川隆景が楼門を造営した時、謹写拡大したもの。
日本書紀に、継体天皇二十年(526)「…長門以東朕制之。筑紫以西汝制之。…」とある。訳すと「…長門から東は朕(継体天皇)が親政する。筑紫から西は汝(物部麁鹿火)が政治せよ。…」となる。長門以東の本州が絶対防衛圏で、九州は遠の朝廷に任せると言うことであろう。後の901年に、菅原道真公が長府に泊まられ、勧学院の井戸の水にお顔を映して悲しくなられ、また関門海峡を眺めて和歌を詠まれたのも、関門海峡の向こう、太宰府は異国の地であると思われたのであろう。
感想
住吉大神、住吉海人族の氏神から八幡大神、秦氏の氏神に主祭神が代わり、摂社に八坂神社も祀られ、現在の島戸の住人は秦氏系が主であろうか?山頂の社地は空地となり、現在は半円形の社地の崖の石垣を背にした社殿の配置は、正に梅ケ峠の砦や彦島八幡宮、松尾大社と似た形式となっていた。
旧厚母八幡宮から北の島戸の住吉八幡宮まで山を背にした神社形式で、かつ住吉海人族の神々を配祀していることは、住吉海人族系の漁師と秦氏系の農民が混住して東門鎮護に任じられていることを示している。