渡来人、秦氏のお土産 | 日本の歴史と日本人のルーツ

日本の歴史と日本人のルーツ

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基本的に山口県下関市を視座にして、正しい歴史を探求します。

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宗像大社、宮地嶽神社の宝物を紹介する。これらの一部分は渡来人と一緒に来たもので、渡来の御礼に神社に奉納したり、所有物として古墳に副葬したのであろう。シルクロードを文物だけがバケツリレー式に輸送されて来たと考えるのは片手落ちである。もしもバケツリレー式に来たのなら購入品か献上品であり、神社なり大和朝廷に直接に納入され本殿に展示され、権威の象徴として臣民に見えるように展示するか、正倉院の様な蔵に収納すべきものである。渡来人が旅費や財産として金製品や最先端技術品を携行したが、日本に到着して安住の地を得て不要になった品物を御礼として奉納したと考えることも出来よう。

朝鮮半島、中国大陸からの出土がない日本製の西アジア・デザイン製品について、戦乱で国の興亡が激しかった中国大陸や朝鮮半島で修行した工人や、じっくり指導された弟子の渡来を想定するより、西アジアからの渡来人を考えた方が自然である。すなわち、戦乱の地で人民が落ち着けない当時の中国大陸、朝鮮半島で文化の創出や、文物の流通も混乱して、当該デザインの製品を生産できる西アジアからの渡来の工人が中国大陸や朝鮮半島から居なくなったとも考えた方が自然である。ただし、西アジアの工人の直系の子孫の渡来だけでなく、婚姻、混血などで文化と技術の両方を受け継いだ東アジア人の渡来を否定するものではない。


参考

宗像大社、沖ノ島の宝物

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沖ノ島の遺跡について

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秦氏が渡来した5世紀以降にササン朝ペルシャの品物を持ってきた。

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どこに持って行っても値打ちのある金製品

亀田修一「古代宗像の渡来人」
津屋崎古墳群の周辺には、朝鮮半島との関わりを示す資料が多く見られ、渡来人の存在を示す証拠となる。それは、海岸部だけでなく、内陸部にも多く存在することが確認でき、鉄器生産にとどまらず、陸上交通、農耕地・水路などの開発、須恵器生産、木工製品生産、馬飼育などとの関わりも推測することができる。  (参考)

筑紫の日向、宮地嶽古墳のお土産

宮地嶽神社には巨大古墳があり、その石室は巨大な石を積み重ねて造られており、大太刀や刀装具、馬具類、緑に輝く瑠璃壺や瑠璃玉、そしてガラス板など、およそ300点が発見され、そのうち20点もの品々が国宝に指定されている。特に目を引くのは黄金を使った品々です。金銅製の冠は黄金に龍や虎の透かし彫りが施されている。 3.2mの大太刀は頭椎(かぶつち)がついており、やはり金の装飾が施されています。 金銅製の鐙(足置き用の馬具)は、金の七葉唐草文が貼付され、遠くオリエントを感じさせる。

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宮地嶽古墳の出土品は奈良の正倉院と同じタイプのものがあるそうだ。銅の鎖、壺鐙のデザインはササン朝ペルシャのものだという。金メッキの頭椎(かぶつち)の太刀はササン朝ペルシアの様式だという。長方形のガラス板(ガラスのインゴット)も鉛系のものでペルシャ系だという。考古学のことはよく分からないが、ガラスには鉛系とソーダ系があり、作られた場所や時代がある程度分かるようだ。古代においてササン朝ペルシア→中国→高句麗・百済・新羅→北九州→大和という物の流れがあった(参考)。





中国大陸の4から5世紀初頭は北方遊牧民族が南下し、混乱の時代であった。この時代、中国の史書に日本のことが出てこない空白の期間であった。すなわち、中国自体が政治、経済、文化的に混乱していたのである。

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中国の歴史区分で、十六国と東晋の乱立時代である。

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朝鮮半島においても、原三国時代と呼ばれる時代は小国分立の時代であった。





国産の金・金銅製品は7世紀後半の奈良県飛鳥池工房跡出土が確認される。