古墳時代に馬も一緒に渡ってきた | 日本の歴史と日本人のルーツ

日本の歴史と日本人のルーツ

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魏志倭人伝には、倭には馬がいないと記されている。しかし縄文時代の貝塚から馬の骨は出土しているようだが、最近の科学的な調査(フッ素分析法)によると、どうも馬ではない可能性が高いようである。

5世紀後半から6世紀後半にかけては、大阪の東大阪地方、生駒山麓や旧河内湖周辺の遺跡から、馬の骨の出土例が31を数えている。四条畷(しじょうなわて)市では、5世紀中頃から6世紀中頃と見られる奈良井遺跡から6頭以上の馬の骨が発見され、うち1頭は丁寧に板の上に乗せられており、周辺に馬型土製品やミニチュアの人形などが出土している。馬具が確認されるのは4世紀末から5世紀初頭にかけてである。九州地方が最も早く、現在の所一番古い馬具は福岡県甘木市の池の上墳墓6号墳や福岡市老司3号石室から出土した轡(くつわ)、鞍金具、鉸具等であろうと言われている。

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埴輪の馬

古代、朝鮮半島からの馬の輸入は、例えば西都原式と呼ばれる準構造船に載せて運ばれた。日本で初めてその実物が「蔀屋北遺跡」から発掘された。その復元船は全長10㍍、幅1㍍、10人乗りの船で、航海は2ノットぐらいの速度で、船団を作っての航海だったと推定されている。馬と渡来人客の数や割合は判明していない。

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馬の輸入用の外航船(準構造船)

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西都原式準構造船の埴輪

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手で漕ぐ絵だか、古墳時代の出土品に、両舷に櫂の穴、中央に帆柱用の穴がある船の模型が見つかっていることから、当時、既に帆走もしていた。


参考




馬の輸入の証拠発見!
わが国古代王朝の威光を軍事面で支えた大阪湾(古代は難波津)に接している大阪柏原市に鉄技術、堺市に土器焼成技術が古代に朝鮮半島から渡来していたことは知っていたが、まさか生駒山系が迫り、大阪湾に些かも面していない四条畷市が「馬」の渡来終着地だったとは!

四條畷市の西にある現在の寝屋川が、古代には難波津に繋がる海路ルートとなっていた。しかもこの海路の条件と、清い水と牧草に恵まれた肥沃大地の馬飼いの環境が見事に合致したことから、ここが朝鮮半島からの渡来先の終着地になったらしい。しかも、四條畷を南北に横たわる生駒山系を越えれば、比較的なだらか下り坂となり、「馬」に負担を掛けず「大和」へ供給できた立地の良さが王朝・豪族に認められ、四條畷(当時・讃良)を「馬」の機動力を軍事制度に組み入れる「馬飼いの里」として定着させられたという。

朝鮮半島からは、比較的穏やかな初夏の海に「馬」を乗せた丸木船を2ヶ月かけて、玄界灘から筑紫(福岡)・豊浦(下関)・瀬戸内海、そして大阪湾(難波津)を経て、河内湖から寝屋川を上り、「蔀屋北遺跡」に辿り着いている。「馬」に同伴してきた渡来人もここに定住したそうだ。(注: 無中継で、畿内と朝鮮半島を往復するのは無理がある。特に馬を輸入する場合、途中、に立ち寄ったと思われる。伝染病予防の意味からも直輸入はありえない。)

四條畷市の「蔀屋北遺跡」で、国内最古となる5世紀中頃の馬の乳歯が2頭分、大阪府教委の調査で出土した。2~2歳半とみられ、同時期の遺跡で、若い馬の存在が確認されたのは初めて。同遺跡は、国内で初めて馬を本格的に飼った牧場とされ、府教委は「朝鮮半島から子馬を船に乗せて連れてきたか、生まれた子馬を飼育し、軍馬として増産したとみられ、国内最初期の馬生産の実態がわかる」としている。3世紀の中国の史書「魏志倭人伝」に、日本に馬はいないと記されており、5世紀頃、朝鮮半島から馬と乗馬の風習が伝わったとされる。馬の乳歯はもろく、「蔀屋北遺跡」からの出土は珍しい。馬飼が、大規模に馬を生産していた様子がうかがえる。たしかに「蔀屋北遺跡」とその周辺から、これまでに丁寧に埋葬された馬の骨(性別は不明)や永久歯計約500点、それにアブミ、鹿角製のハミ、鞍などの馬具も出土している。総数26基の井戸も発掘されており、このうち7基は、「馬」運びに使った舟を転用して、井戸枠を作っているのが分かっている。その船は、西都原式といわれる準構造船で、日本で初めてその実物がこの「蔀屋北遺跡」から発掘されている。復元船は、全長10㍍、幅1㍍、10人乗りの船。航海は2ノットぐらいの速度の船団だったと専門家は説明しているが、果たして1隻の船に一体何頭乗せて来たかは明らかではない。

四條畷市の「馬飼いの里」で繁殖された「馬」は、王朝や豪族の間で軍事・通信・運輸に重用され、いわゆる権力誇示の証とされた。それだけに四條畷市の「馬渡来の終着地」の意義と「馬飼いの里」からの「馬」の供給価値は、権力側から高く受け入れられていた。しかし文武4年(700年)になると、天皇に献上する公の牧場が諸国に作られ始められるようになり、そののち平城京遷都の時には、騎兵500人が威儀を正して行進し、「馬」が国家の資としての威容をみせつける時代に移っていく。こうした時代の変遷のともない、平城京遷都の頃には、四條畷市の「馬渡来の終着地」の役割は終焉し、「馬飼いの里」も姿を消したという。(引用四條畷市は古代の馬輸入の受け入れ基地だった)

秦氏は騎馬民族だったので高天原にはがあり、馬を放牧していた。朝鮮半島から連れて来た馬を休息させるなり、繁殖させて畿内に送るとか、各地へ送り出したと考えるのが自然である。




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『日本書紀』に「宇摩奈羅麼、譬武伽能古摩(うまならば、ひむかのこま = 馬ならば日向の駒)」とあり、古くは「ひむか」と呼ばれたと考えられている。この日向(ひむか)は筑紫の日向である。馬は朝鮮半島からの輸入であり、この日向は北九州の筑紫国内であるべきであり、宮地嶽神社の近くに馬の輸入基地である「渡の牧」があった。

日向の駒 文庫書紀④122-8
福岡県遠賀郡の岡垣町 波津 湯川に小字「馬駈原」 があり、馬牧だった説がある(
参考)。

馬の輸入経路について、朝鮮半島・北九州経由のモンゴル系中型馬と南西諸島・南九州経由の小型馬の2系統輸入説があったが、DNAの研究から北九州経由の中型馬が国内で分化したとの結論になった(参考)。