初期秦王国の領土 | 日本の歴史と日本人のルーツ

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県主(あがたぬし)は、律令制が導入される以前のヤマト王権の職種・姓(かばね)の一つである。県主は、国造(くにのみやつこ)や伴造(とものみやつこ)の「ミヤツコ」よりも古い「ヌシ」の称号をもち、名代・子代の制よりも古めかしい奉仕形態をとるから、3~4世紀(古墳時代初期)に成立したと考えられている。

秦氏が大挙して渡来する前、神功皇后の三韓征伐前の4世紀の初期秦王国を取り巻くヤマト政権の地方組織の県をwikiより列記すると、丹波(丹波・丹後)丹波県吉備(備前・備中・備後・美作)三野県、苑県、波区芸県、上道県、川島県主周防沙麼県筑紫(筑前・筑後)水沼県松浦県、岡県、伊都県、八女県、儺県、山門県、嶺県、上妻県豊(豊前・豊後)長峡県、直入県、上膳県壱岐壱岐県対馬対馬県となる。従い初期秦王国を取り巻く国境となる県は丹波県(出雲の東)、沙麼県(防府)、岡県(遠賀川)、儺県(博多)、伊都県(糸島)、長狭県(京都郡)となり、ヤマト政権と対等な初期秦王国は大まかには出雲以西の山陰側で穴門が西端か!北九州では岡県と儺県の間にあった安曇氏(秦氏)の根拠地である志賀島辺りから津屋崎辺りに、宗像海人族や住吉海人族の縄張りを飛び地として加え、初期秦王国の完成となる。

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4世紀中頃、仲哀天皇、神功皇后が豊浦宮にこられた頃の初期秦王国の領土(青)。岡の県主の祖・熊鰐と伊都の県主の祖・イトテは安曇氏(秦氏)の一族であるから初期秦王国の領土に加えても差支え無い(赤)。ちなみに、初期秦王国の王のイトテは武内宿禰である。

後に、熊襲が反抗して新羅の塵輪と共に仲哀天皇と戦い、天皇が勝利した後、熊襲征伐に安曇氏(秦氏)の一族である岡の県主と伊都の県主(赤)が協力し、儺県に仲哀天皇の滞在する橿日宮をおいて熊襲を平定した。岡の県主の祖・熊鰐は響灘の北浦海岸の漁業権・国防業務を神功皇后に献上し、住吉海人族、宗像海人族に再配分し、三韓征伐に備えた。

熊鰐は元々は響灘全域を根拠地にする海人族だったのがこの北浦海岸の献上で岡の県主の祖に、イトテは元々は初期秦王国の王であったものが神功皇后の臣下となって伊都の県主の祖になったのか、元々二人とも県主であったのかは確かでは無い。元々、二人は安曇氏(秦氏)で神功皇后、武内宿禰らと同族であり、三韓征伐や5世紀以降の秦氏の渡海プロジクトを視野に入れた対応だったのであろう。


参考







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参考、時代が下った磐井の乱のころ。


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弥生時代初期から中期にかけ初期秦王国付近のみに普及した綾羅木式土器や楽器土笛がある。弥生時代初期から山陰の弥生人は独自の文化を持っていた。



出雲は初期秦王国(イツツヒコ王国)が国譲りをした。王国の話が大和朝廷の物語に吸収された。大国主命は国譲りを迫られ事代主命に判断を任せるが、この事代主命が恵比寿さん又は武内宿禰であり、渡来人を助けた安曇氏のボスでした。猿田彦とも言いますが、山陰側の神社にはあちこち祀られている。