初期秦王国は北九州から出雲まであった | 日本の歴史と日本人のルーツ

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仲哀天皇、神功皇后が穴門豊浦宮にこられる前から、北九州から出雲の辺りまで渡来人の秦氏が少数ながら渡来して秦王国をつくっていた。国王はイツツヒコと言い、その首都が下関であった。具体的には響灘に面した北浦海岸側であろう。このイツツヒコ王国は古墳時代以降も独立を保っており、隋書東夷伝にある秦王国につながる。


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豊浦宮、蚕種の渡来碑

イツツヒコらの渡来人はイトテの時代に仲哀天皇や神功皇后に従い、熊襲と新羅の塵輪の連合軍を破った。さらに朝鮮半島に向かい三韓を征伐することに応じなかった仲哀天皇は亡くなり、神功皇后が三韓征伐から帰還して応神天皇がご誕生し、新羅経由で秦氏の渡来が加速した。


参考

ツヌガアラシト説話に、敦賀に上陸したツヌガアラシトは、それまでの困難な航程について、次のように語ったという。

穴門に到る時に、其の国に人有り。名は伊都都比古。臣に謂りて曰はく、「吾は是の国の王なり。吾を除きて復二の王無。故、他処にな往にそ」といふ。然れども臣、究其の為人を見るに、必ず王に非じといふことを知りぬ。即ち更還りぬ。道路を知らずして、嶋浦に留連ひつつ、北海より廻りて、出雲国を経て此間に至れり。(北九州付近から出雲辺りまでがイツツヒコの国であったので敦賀に上陸した。)

下関(穴門)といえば、もう少し時代が下る日本書紀「仲哀天皇紀」に、五十迹手という人物がいて、鏡、玉、剣の三種の神器、支配権の象徴を捧げるという降服の儀式と思われる仕方で下関の彦島に仲哀天皇を出迎えた、という記事がみえる。(仲哀天皇を筑紫の伊都の県主の祖・イトテが彦島で拝謁した。)

これは『倭人と韓人』(講談社学術文庫)上垣外憲一の研究成果を丸々参考しました。またはこの資料にもある。

ツヌガアラシトは日本書紀垂仁記にある。

島根県に五十猛の渡来伝説を持つ神社が多数ある。(参考)

イツツヒコの子孫が五十迹手=イトテ=イタテ=事代主=一言主=イタケ=五十猛(参考1参考2)、さらに武内宿禰と同一神であった(参考)。事代主は五十猛、安曇磯良と同一神で安曇氏である。(参考)








ここでの出演者はみな秦氏であった。

武内宿禰は仁徳天皇までの6代に使え300年生きたことになっており、多くの顔を持っていたと考えられる。秦王国の国王は武内宿禰と考えられる。穴門が武内宿禰の秦王国の首都であったので、仲哀天皇、神功皇后は豊浦津に豊浦宮を定められたのであろう。首都の場所は北浦海岸側で、豊浦宮に近い天然の良港(入江)で安曇海人族の根拠地であろうから、下関市の幡生であろう。豊浦宮と響灘側の北浦海岸結ぶルートを示す。幡生の生野神社には古墳、神功皇后伝説があり、古代幡生湾は天然の良港であり、さらに幡生、生野の名前の(うまれる)が中心を示唆する。神社では宗像三女神が祭神であるが、神功皇后が与えたもので、以前は安曇系であった。その他の候補に、安岡の畑代後々、渡来の基地となる梅ケ峠、イトテと神功皇后が会談した彦島の海士郷町という安曇氏系の漁師町が考えられる。綾羅木郷台地には弥生時代、環濠集落があった。

後世の隋書東夷伝にある秦王国につながる初期の秦王国と考えられ、渡来人の大量受け入れの受皿となった。四ヶ所あった高天原は皆、初期の秦王国の領土内にある。




田中晋作氏の古墳時代の甲冑研究から導かれた理論をコペルニクス的転換させれば、「山口県の旧長門国域から島根県の出雲市にかけては帯金式甲冑の出土がみられない」 ことから、戦闘がない強固に安定した地域であったことが想定される。(参考)

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弥生時代後期、銅剣、銅鐸が出土しない。大和、九州のどちらの陣営にも属さない独立王国があった(参考)。

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弥生時代初期から中期にかけ当該地域のみに普及した綾羅木式土器や楽器土笛がある。当時から安定した国家があったのであろう。



出雲は初期秦王国(イツツヒコ王国)が国譲りをした。王国の話が大和朝廷の物語に吸収された。大国主命は国譲りを迫られ事代主命に判断を任せるが、この事代主命が恵比寿さん又は武内宿禰であり、渡来人を助けた安曇氏のボスでした。猿田彦とも言いますが、山陰側の神社にはあちこち祀られている。