卑弥呼の宮室 | 日本の歴史と日本人のルーツ

日本の歴史と日本人のルーツ

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卑弥呼の女王国は北九州の宗像にあった。魏志倭人伝の文中の「おごそか」に注目し、通常の居住地、砦などと違うイメージを持つ。宗像大社の奥に伊勢神宮の正宮の古くなった建物を移築して二宮、三宮としているが、これが卑弥呼の宮室のイメージでは!

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宗像大社の奥にある二宮、三宮

この二宮、三宮の写真の奥に高宮祭場がある。鎮守の森をさらに歩いた、小高い丘の上にあります。

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宗像三女神の御降臨の地と言われています。この地で祭祀が行われ敬虔な祈りが捧げられました。ここは3世紀後期(?)の祭祀遺跡である下高宮遺跡があり(参考)、ここが卑弥呼の宮室の跡かもしれない


参考

邪馬台国の女王・卑弥呼が居所とした宮室は魏志倭人伝に記されているだけである。倭人伝には、卑弥呼の居所には「宮室、楼観(たかどの)、城柵をおごそかに設け、つねに人がいて、兵器を持ち守備をしている」「兵器には矛(ほこ)を用いる」「竹の箭(や)は鉄の鏃(やじり)あるいは骨の鏃である」などと記されている(参考)。


これに対し、大和の纒向遺跡では、

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4棟の建物跡は、いずれも中軸線を東西の同一直線上におき、同じ方向を向いて建てられている。 纒向遺跡でも建物を囲むように柵が敷設されていたが、これは区画用の柵である。(既に外敵を征圧し、防御の必要が無かった。同時期の時代の流れ)

ちなみに、近くの弥生遺跡の唐子鍵遺跡が吉野ヶ里遺跡に似て倭国大乱の跡が残っている。すなわち、古墳時代に入ると環濠は埋め立てられ、消滅した。

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唐子鍵遺跡の楼観


北九州の佐賀県の吉野ヶ里遺跡では、

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北内郭は二重の環壕に囲まれており、その中に斎場棟、主祭殿、物見櫓と思われる建物跡があった。防御用に設けられた城柵をもつ。


武具について、西暦300年以前に出土した鉄鏃、鉄刀、鉄剣、鉄矛、鉄戈などの数は圧倒的に福岡県が多くて、奈良県の出土例はほとんどゼロに近い。(すなわち、北九州が倭国大乱の地であった証拠てある)