福岡県の甘木・朝倉の地名の命名時期 | 日本の歴史と日本人のルーツ

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福岡県の甘木・朝倉地域に近畿とよく似た地名があちこちにあり、相対的な位置関係もよく似ているとか!邪馬台国時代に遡って、戦略的に命名されたと考えられる。遅くとも671年に太宰府が出来た時、または921年に防衛拠点の変更時に正式に命名されたであろう!

927年成立の延喜式には見ることが出来ると言うことは、この時期に意図的に延喜式に記載した可能性が大きい。


参考

①  福岡県の甘木・朝倉と近畿に同じ地名があることへの邪馬台国の戦略説


② 邪馬台国、甘木・朝倉説へ疑義

甘木付近の筑前夜須郡と畿内大和郷の地名一致が約1000年前の『延喜式』成立の927年まで溯れるとしても、その地名移動が九州 ← →畿内のどちらであるか現時点では断定しにくい。

逆に、夜須郡と大和郷の地名がほぼ一致していることは、地名移動が比較的新しいことを暗示している。 すなわち、倭人伝に出現する約30ヵ国の国名のうち延喜式の郡名と完全に一致するのは4ヵ国に過ぎず、3世紀中頃の邪馬台国時代のほとんどの地名が消滅している。一方、神武東征を3世紀末とし、この時に九州の地名が畿内に持ち込まれ、これらの地名が後世まで続いたとすると、倭人伝との比較では地名残存の落差はあまりに大きい。これは、夜須郡← →大和郷の地名移動が、3世紀中頃の邪馬台国時代や3世紀末の東征時よりもかなり後世であったことを意味する。つまり6~7世紀の大和朝廷確立後に、畿内大和郷→筑前夜須郡の地名移動が行われたと考えられる。

そして、その可能性が最も高い時期としては、筑紫平野を本拠地とした筑紫の君磐井による磐井の乱(527~528年)の直後、または斉明天皇・中大兄皇子による百済救援(661~663年)に際して朝倉の宮を大本営とした時期であろう(参考)。


③ 白村江の戦い以降の大和政権の動き

斉明天皇6年(660年)百済が滅亡し、百済復興をかけて天智天皇2年(663年)唐・新羅連合軍と対峙した白村江の戦いで大敗した。

天智朝では、664年(天智天皇3年)8月、筑紫に水城(みずき)・小水城を造った。また、翌年の665年(天智天皇4年)大宰府の北に大野城、南に基肄城などの城堡が建設されたとされた。

649年(大化5年)には「筑紫大宰帥」の記述があるほか、天智天皇から天武天皇にかけての時期にはほかに「筑紫率」「筑紫総領」などが確認でき、中央から王族や貴族が派遣されていた事を示すと考えられている。機関としては、667年(天智天皇6年)に「筑紫都督府」があり、671年(同10年)に初めて「筑紫大宰府」が見える(wikiより、太宰府は見せかけの防衛拠点説)。

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④ 神功皇后時代、東門鎮護は下関市豊北町の東門鎮護、住吉八幡宮、西門鎮護は筥崎宮であった。

筥崎宮は延喜21年(921)、醍醐天皇が神勅により「敵国降伏」の宸筆を下賜され、延長元年(923)筑前大分宮(穂波宮)より八幡大神を遷座して独立し、九州防衛に専念した。同時に西門鎮護の役割は関門海峡に唯一の防人軍団、豊浦団を残し、日本西門鎮守八幡宮など5社を創建し、本州防衛に専念した。


⑤ 博多も665年ころ同時に名称変更された


⑥ 福岡県春日市は畿内からの入植地


⑦ 安本美典氏が指摘する皆既日食は沖ノ島で見える、邪馬台国は甘木・朝倉には無い


⑧ 倭国大乱後くらいに邪馬臺国に命名されたとしてもおかしく無い(参考)