白村江の戦いの敗戦処理 | 日本の歴史と日本人のルーツ

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671年、唐の副将、郭務悰が、47隻の大船団と2000の兵を率いて太宰府に来訪し、捕虜1500を倭国へ返還(参考)とか、日本人捕虜2000人を返還、果ては2000人の兵が太宰府へ進駐(九州王朝滅亡)との誇大妄想的な解釈がある(参考)。

通常な解釈では、百済人の難民1400人から2000人を連れて来たが、太宰府への上陸までは無く帰国した。難民を受け入れたどうかもはっきりとしないが、多分、受け入れたのが事実であろう。


参考

661年、大津宮に遷都、朝鮮半島に干渉を始める。

663年、倭国は白村江の戦いに敗れる。

664年、遣唐使が再開される。前後、653年から669年まで6度の遣唐使が相次いで派遣されている。

664年、防人、狼煙台を設置、太宰府に水城築造。翌665年、長門、筑紫などに朝鮮式山城を築く。

665年に唐の朝散大夫沂州司馬上柱国劉徳高が戦後処理の使節として来日し、3ヶ月後に劉徳高は帰国した。この唐使を送るため、倭国側は守大石らの送唐客使(実質遣唐使)を派遣した。

667年には、唐の百済鎮将劉仁願が、熊津都督府(唐が百済を占領後に置いた5都督府のひとつ)の役人に命じて、日本側の捕虜を筑紫都督府に送ってきた

661年から672年まで天智天皇が近江大津宮に都を置いた。大友皇子(弘文天皇)が西暦672年の壬申の乱で亡くなり、大海人皇子(天武天皇)が即位。

690年、持統天皇は、捕虜の帰還の功労で筑後国上陽咩郡(上妻郡)の住人大伴部博麻を表彰した。

704年(慶雲4年)5月26日、『続日本紀』に、唐の捕虜になっていた日本兵3人が、遣唐使の帰国に際して許されて帰国した、とある。

707年、讃岐国の錦部刀良、陸奥国の生王五百足、筑後国の許勢部信太形見らも帰還した。

(wiki、参考1参考2参考3)


郭務悰 かく-むそう
唐(中国)の官吏。白村江(はくそんこう)の戦いの戦後処理のため,唐の百済(くだら)鎮将劉仁願(りゅう-じんがん)の命で天智(てんじ)天皇3年(664)来日。朝廷から正式の唐使とみとめられず帰国、翌年唐使劉徳高とともに来日。さらに10年百済の難民二千余人をひきいて来日したが、翌年筑紫で天智天皇の死を知らされ帰国した(コトバンク)。

郭務悰 かく-むそう
7世紀の唐の官人。生没年不詳。朝散大夫、上柱国。663年の白村江の戦いの後,翌年旧百済領占領軍の鎮将劉仁願の命により百済人禰軍らとともに戦後処理の交渉のため来日、表函と献物を進める。朝廷は郭務悰を鎮将の私使と認めて太宰府で交渉させ、入京を許さなかった。翌年劉徳高とともに表函を携えて再び来日し、このときは入京を許された。669年にも来日したという。671年百済人沙宅孫登らとともに総勢2000人で来日。672年天智天皇の死後,甲冑・弓矢,絁・布・綿を与えられて帰還した(コトバンク、669年の記事は671年の重複との説があり、こらが正しかろう(参考))。

671年11月に、唐国の使人郭務悰等600人、送使沙宅孫登等1400人、総計2000人が、船47隻に乗り、比知島に停泊していた(参考、wikiより)。

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錦江河口(参考)






役小角7世紀後半に各地に寺社を創建した。白村江の戦い(663年)の敗戦後の待ち受け基地の役割をもった寺社もあろう!例えば、久留米市高良大社は太宰府、四国の琴平宮は瀬戸内海を守るためであろう!

小説的解釈: 
白村江の戦いの後、唐・新羅の最優先すべき課題は長年の宿敵・高句麗の殲滅であった。そのためには背後の敵国・倭への憂いを解消することが必要不可欠だった。倭国に傀儡政権を樹立させた所以である。しかし、倭国には頑強に抵抗する勢力があった。669(天智8)年と671年(天智10)年の二度にわたる2000人の占領軍派遣はその対策のためであった。669年の記事は詳しい内容がないので、「定説」では671年条の重複記事とされている。しかし私は次のように考えている。 、、これから先は考古学的資料も無く、裏付けの無い推理小説となっている(参考)。