宇美町あたりが魏志倭人伝の不彌国 | 日本の歴史と日本人のルーツ

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魏志倭人伝に記載せれた不彌国は福岡県の宇美町あたりです。神功皇后が応神天皇をお産みになったから宇美と名付けたと記紀にあるのは、宇美町あたりの熊襲の地を平らげて平和になったことをアピールする為の嘘でした。

さらに、魏志倭人伝によると奴国の東行(実際は北行)し、更に邪馬台国への道程にあることから、糟谷屯倉になるところあたりまで領域が有ろう(参考)。ただし、博多湾の海岸線は埋め立てられており、また海の中道も変化しているとのことで、現代の地図と古代の地形は異なることは考慮して欲しい。

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左: 奴国、右: 不彌国


参考

「魏志倭人伝」に記載されている「不彌(ふみ)国」は民家戸数比較や距離や方角からして 現在の宇美(うみ)町の可能性が高いのですが、 「宇美(うみ)町=不彌(ふみ)国」という事を断定できない理由は宇美町に港がないということでした。 しかし、もう一つそれを否定するような記述が「日本書紀」にあるのです。 その内容は「朝鮮より帰還した神功皇后が筑紫で応神天皇を産んだが、人々はその場所を宇濔(うみ)と呼ぶようになった。」 というものです。

もしこの事が事実であれば、「宇美」は神功皇后時代以後の呼び名となるわけで、 神功皇后時代から100年ほど前の卑弥呼の時代の「不彌国」とは別ものになってしまうのです。 何故なら卑弥呼の時代に「宇美(濔)」という呼び名は存在していないことになるからです。

「宇美(うみ)町=不彌(ふみ)国」という立場で考えると「日本書紀」の「宇美(濔)の由来」は真実か否か? 神功皇后が応神天皇を産んだ以前に「宇美」は本当に存在しなかったのか?といった謎が深まるのですが、 どちらにしても「魏志倭人伝」に記載されている奴国からの距離より「不彌国」が現在の福岡県内にあったのは間違いないようです。 この「不彌国」の所在地が判明するようなものが発見されれば、幻の邪馬台国へもう一歩近づけるのかもしれません(参考)。


宇美八幡宮、宇美町




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