那津宮家、奴国 | 日本の歴史と日本人のルーツ

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魏志倭人伝に出てくる奴国について、6世紀に設置された那津宮家のあたりと考えられる。宮家が三宅に転化したとすると①、遺跡からは②、③などが考えられる。何れにしても、福岡市が奴国と考えて差し支えない。ただし、博多湾の海岸線は埋め立てられており、博多駅、住吉神社あたりまで後退させて考えて頂きたい。

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左: 奴国、右: 不彌国


参考

① 那津官家(福岡市南区三宅):

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継体天皇21年(527)に「筑紫君磐井の乱」が起こり、その翌年に平定される。これに懲りた大和政権は、北部九州の支配確立と、同時にその対処が急速に高まっていた流動化する朝鮮半島政策を担う拠点として、現在の福岡市南区三宅付近とされる所に「那津官家(なのつのみやけ)」という出先機関を置いた。(「日本書紀」宣化天皇元年(536)五月の条)(参考)。

三宅廃寺跡: 福岡市南区の旧大字三宅字コクフにある7世紀後半から9世紀代の寺院跡。これまでに5次の発掘調査を実施しており、一辺100~110m規模の寺域が想定されているが、詳細は明らかではない。奈良時代前半の老司式瓦、「寺」や「佛」・「堂」などと墨書した土器、木簡・正倉院宝物に類似する黄銅製の匙と箸などが出土している。近接する若八幡宮(三宅小学校前)の手洗石は、三宅廃寺の塔の心礎を転用したものと考えられている。なお、『日本書紀』宣化天皇元年(536)5月の条によれば、那津(なのつ)の口に官家(みやけ)を修造し、内外の非常に備えて穀物を蓄えさせたとあり、これが三宅の地名の起こりと考えられてきた。ただし、「那津官家」(大宰府の前身)の位置は近年の発掘の成果から博多区の比恵遺跡に比定する考えが浮かんでおり、検討を要する(参考)。


② 比恵遺跡(福岡市博多区):

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比恵遺跡は、那珂川と御笠川に挟まれた丘陵上に立地し、縄文時代の終わり頃から戦国時代に至るまでの集落、墳墓地として知られている。

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福岡市教育委員会が実施した第8次(1984年)と第72次(2000年)の発掘調査によって、3本柱の柵に囲まれた倉庫と考えられる10棟の総柱建物が出土した。建物の時期は、6世紀後半から7世紀後半と考えらる。柵は、北辺と南辺が確認されただけで、東辺と西辺が調査区外のため、全体規模は明らかではないが、周辺の調査などから、南北55~58m、東西50m以上の方形区画が推定されている。

これらの遼構は『日本書紀』宣化元年(536年)の条に記述されている「那津官家」に関連するものと考えられ、極めて歴史的価値が高いものといえる。

「那津官家」とは、大和政権が朝鮮半島情勢の緊迫化を受け、国内基地として造営したものである。政治的、軍事的な機能を持ち、7世紀後半に大宰府が設置されるまで、その役割を担っていた(参考)。


③ 春日市奴国の丘歴史資料館

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春日市内の遺跡から出土した埋蔵文化財や、昭和初期の農具を中心とした民俗資料を展示、収蔵しています。また、当資料館のある須玖岡本遺跡の一部は春日市奴国の丘歴史公園として整備しています。甕棺(かめかん)墓群を発掘した状態で見学できる覆屋や、奴国王墓の上石を保存展示しており、自由に見学することができます(参考)。

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福岡県春日市岡本3-57