下の地図を見て下さい。ここが邪馬臺国時代以前の倭国を代表する奴国の中心あたりです!
古代、住吉神社から北は博多湾でしたから、住吉通りより南が陸地でした。綺麗な条里制地割(本来は水田の地割か?)が見えます。二枚目の写真は東部地区です。
一度、地割が出来て人々が住み始めると、戦乱で荒廃し無い限りそのまま続きます。この辺りは弥生時代から戦乱は有りませんから、すなわち、弥生時代の遺跡である奴国でしょう。この周りも条里制地割が見えますから、水田の中に奴国の町の家が同居していたと考えられます。
太宰府付近の条坊制と思しき区画の貧弱なこと!ここは弥生時代の邪馬臺国以前の倭国を代表する都ではありません!
注: 条里制地割は中国の山東半島あたりがルーツで(参考)、北九州に住んだ呉の太白の末裔を名乗る呉系弥生人の故郷の江南の地の文化では有りませんでした。この土地を開発した民族と住人は異なることを示唆します。すなわち、土地開発は山東半島あたりに所縁のある海人族安曇氏が開発して、斉系弥生人に入居させていた。しかし、山東半島の斉より早く滅亡した呉の国の呉系弥生人と燕の国の燕系弥生人を入居させたと推測しています(参考)。
参考