倭の奴国を発見 | 日本の歴史と日本人のルーツ

日本の歴史と日本人のルーツ

日本の歴史と日本人のルーツを解明します。

基本的に山口県下関市を視座にして、正しい歴史を探求します。

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下の地図を見て下さい。ここが邪馬臺国時代以前の倭国を代表する奴国の中心あたりです!

古代、住吉神社から北は博多湾でしたから、住吉通りより南が陸地でした。綺麗な条里制地割(本来は水田の地割か?)が見えます。二枚目の写真は東部地区です。

一度、地割が出来て人々が住み始めると、戦乱で荒廃し無い限りそのまま続きます。この辺りは弥生時代から戦乱は有りませんから、すなわち、弥生時代の遺跡である奴国でしょう。この周りも条里制地割が見えますから、水田の中に奴国の町の家が同居していたと考えられます。

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渡辺通駅から住吉神社を結ぶ住吉通り以北が旧博多湾、住吉は住之江を意味し、人々の住む入江、住吉氏族は港を守る津守とか!

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画面外の右手下あたりに板付遺跡がある


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太宰府付近の条坊制と思しき区画の貧弱なこと!ここは弥生時代の邪馬臺国以前の倭国を代表する都ではありません!

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大宰府の条坊制に注目


: 条里制地割は中国の山東半島あたりがルーツで(参考)、北九州に住んだ呉の太白の末裔を名乗る呉系弥生人の故郷の江南の地の文化では有りませんでした。この土地を開発した民族と住人は異なることを示唆します。すなわち、土地開発は山東半島あたりに所縁のある海人族安曇氏が開発して、斉系弥生人に入居させていた。しかし、山東半島の斉より早く滅亡した呉の国の呉系弥生人と燕の国の燕系弥生人を入居させたと推測しています(参考)


参考

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同じ吉野ヶ里タイプの人々が住んでいても、有明海側の米の種類と玄界灘側の米の種類が異なると言う(参考)。春秋戦国時代の中国大陸の国々の滅亡の順を考えると、以下のようになる。

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青線の有明海沿岸にに初め呉系弥生人を入植させた。赤線以北は海人族安曇氏(斉系弥生人は春秋戦国時代最後までに渡来)の領域。

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次に玄界灘に呉系と同じ燕系弥生人の居住地を割り当てた。赤線が北に後退、壱岐までが青線の領域となる。


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住吉神社より南が陸地


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大和の纏向あたりの条里制地割の水田地帯と比べて下さい。この邪馬臺国に奴国が勝てなかった理由は塩を自給していなかったからです(参考)。実は、日本の塩は海人族安曇氏が一手に握っていました。