博多の地名の那珂と志賀島、茨城の地名の那珂と鹿島 | 日本の歴史と日本人のルーツ

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茨城県の鹿島を代表として、全国各地の地名の鹿島は現在、カシマと読むが本来はシカノシマ、すなわち志賀島であった!全国に鹿島の地名と鹿島神社が一緒になって点在するが、志賀島を本拠地にした海人族安曇氏が移住したのであろう!これと同時に、那珂と言う地名が奴国や志賀島のあった福岡市あたりと茨城県に集中する。

茨城県の鹿島神宮や鹿島神社の創建時期が8世紀初頭あたりで、福岡市の古代の地名の「な」(奴国、那の津、那珂など)から博多に改名された7世紀後半と辻褄が合う。

近畿から北九州への移民、東日本の人々が防人となって博多や太宰府の防衛に従事したことと入れ替えに、北九州の原住民が東日本などに移住して開拓にあたったことが想像される。

北九州防衛に東国からの防人が従事し、北九州の人々が東国に移住するとは奇妙に思えるが、現地民の力を削ぐ大和政権の陰謀であろう!こう考えるとワザワザ防人を東国から招く理由がよく分かる。


参考

① 鹿島神宮(かしまじんぐう)、茨城県鹿嶋市宮中

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祭神: 武甕槌大神

『常陸国風土記』には鹿島社に多くの神戸、すなわち祭祀維持のための付属の民戸が設置されたことが見える。また同記では、大化5年(649年)に神郡として香島郡(鹿島郡)が成立し、天智天皇年間(668年-672年)には初めて使いが遣わされて造営のことがあったと記す。

カシマを「鹿島」と記した初見は養老7年(723年)であり、8世紀初頭には「香島」から「鹿島」に改称されたと見られている。

茨城県の鹿島神宮と千葉県の香取神宮とも、古くより朝廷からの崇敬の深い神社である。その神威は、両神宮が軍神として信仰されたことが背景にある。古代の関東東部には、現在の霞ヶ浦(西浦・北浦)・印旛沼・手賀沼を含む一帯に香取海いう内海が広がっており、両神宮はその入り口を扼する地勢学的重要地に鎮座する。この香取海はヤマト政権による蝦夷進出の輸送基地として機能したと見られており、両神宮はその拠点とされ、両神宮の分霊は朝廷の威を示す神として東北沿岸部の各地で祀られた。鹿島神宮の社殿が北を向くことも、蝦夷を意識しての配置といわれる(wikiより)。


② 鹿島地名と神社(2チャンネルより)

茨城県牛久市久野町鹿島山  鹿島神社
茨城県取手市椚木鹿島前       
茨城県かすみがうら市下土田鹿島明神   鹿島神社
茨城県下妻市見田鹿島        鹿島神社
茨城県鹿嶋市宮中鹿島山    鹿島神宮
茨城県稲敷市須賀津鹿島    鹿島神社
茨城県土浦市飯田鹿島        
茨城県つくばみらい市福岡鹿島東    鹿島神社
茨城県つくば市君島鹿島    鹿島神社
茨城県常総市鴻野山鹿島窪       
茨城県北茨城市磯原町豊田  鹿島    鹿島神社
島根県浜田市三隅町湊浦鹿島       
島根県出雲市大社町日御碕かじま      
島根県松江市嫁島町嫁ヶ島 
兵庫県豊岡市竹野町竹野賀島山      
京都府京丹後市大宮町周枳鹿島田      
石川県加賀市塩屋町鹿島の森     
石川県白山市鹿島町  
鹿島神社
石川県羽咋市鹿島路町鹿島路      
石川県鹿島郡中能登町鹿島 
石川県七尾市香嶋津         
石川県鳳珠郡穴水町鹿島       
富山県富山市鹿島町  鹿島神社
富山県下新川郡朝日町宮崎鹿島樹叢    鹿島神社
長野県大町市鹿島槍ヶ岳  
長野県大町市平鹿島       
新潟県柏崎市北条鹿島  
福島県会津若松市大戸町小谷鹿島前
その他、多くの鹿島地名がある。


③ 福岡県の鹿島神社
・福岡県太宰府市朱雀四丁目213番
・福岡県柳川市東蒲地852


④ 茨城県那珂市の鹿島神社
・鹿島三島神社、那珂市後台1番地
    祭神: 武甕槌命、大山祇命
    創建: 和銅年間(708年~715年)

・菅谷鹿島神社、那珂市菅谷

    祭神: 武甕槌命
    創建: 大同年間(806-810)
・鹿島神社、那珂市杉1459


⑤ 那珂地名(ニコニコ大百科より)
・那珂市、ひたちなか市、那珂郡など茨城県
    福岡県、宮崎県、香川県、埼玉県に同名の郡
・那珂川は茨城県・栃木県と福岡県
・那珂川町は福岡県と栃木県
・その他
     福岡県福岡市博多区
                      那珂、東那珂
     宮崎県宮崎市佐土原町
                     下那珂、西上那珂、東上那珂、
      茨城県東茨城郡城里町
                      那珂西


⑥ 防人は、663年の白村江の戦いの敗戦を契機に、唐が攻めてくるのではないかとの憂慮から北九州沿岸の防衛のため設置された辺境防備の兵である。当初は遠江以東の東国から徴兵された(wikiより)。

鹿島は大和朝廷における関東の政治・軍事の主要拠点でもあり、遠く筑紫の国の警備にあたる防人(さきもり)として、東国から徴用された若者が集められた場所であった。若者たちはこの地で戦闘訓練を受け、海路を経て筑紫国へと派遣されて行った(参考)。


⑦ 7世紀後半あたりに北九州に博多が現れる。この時期、近畿から北九州に一致地名が現れ、人々の近畿から北九州への移動が伺える(参考)。


⑧ 海人族安曇氏の神である安曇礒良は、筑前国では鹿島(しかのしま)大明神、常陸国では鹿島(かしま)大明神、大和国では春日大明神という。異名であるが同一神である。神功皇后は軍船を率いて敵国に向われた。梶取は志賀島大明神、大将軍は住吉大明神、副将軍は高良大明神である。敵は大軍であった。しかし、皇后は旱珠・満珠をお使いになり、敵を溺れさせて勝つ事ができた(参考)。
 
利根川を挟んで隣りにある香取神宮では「楫取 = かじ(舵)取り」という古名から(wikiより)、やはり海人族の神社を連想する。


⑨ 香取神宮、千葉県香取市香取1697

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祭神: 経津主大神


社伝では、初代神武天皇18年の創建と伝える。黎明期に関しては明らかでないが、古くは『常陸国風土記』(8世紀初頭成立)にすでに「香取神子之社」として分祠の記載が見え、それ以前の鎮座は確実とされる(wikiより)ことから、鹿島神宮と同時期に大和政権から尊崇されたと考えて良かろう!

奈良時代、香取社は藤原氏から氏神として鹿島社とともに強く崇敬された。神護景雲2年(768)には奈良御蓋山の地に藤原氏の氏社として春日社(現・春日大社)が創建されたといい、鹿島から武甕槌命(第一殿)、香取から経津主命(第二殿)、枚岡から天児屋根命(第三殿)と比売神(第四殿)が勧請された(wikiより)。


10 志賀島は「漢委奴國王」の銘がある金印の出土で著名だが、古代では「鹿の島」と呼ばれていた。この島は古代の豪族(海人族)阿曇氏(あずみ)の本拠地があった場所である。阿曇氏の祖神、「安曇礒良(アズミのイソラ)」が祀られる「志賀海神社」にはご神宝として鹿の角が数千本収められている。船のこぎ手を「鹿児」(かこ)というが、鹿は古代の海人族のトーテムであった。鹿児島は文字通り鹿児の島であって、海人族と関連のある地名には鹿の文字が多い。また全国に残る地名で、阿曇・安曇・厚見、渥見、熱海、泉などは阿曇氏が移り住んだ地であると推察されている。

阿曇氏は九州から東北までのほぼ全域と朝鮮へ到る古代海上交通の最重要路を掌握していた。現代の我々が想像する以上に、古代の航海術は発達しており、海上ルートを通じて、九州から東北まで活発な交流がなされていたようである。これらの海上ルートは、九州から瀬戸内海、近畿、東海を経て関東の鹿島を結ぶ古代のハイウエイであった(
参考)。