近江国の蒲生野は額田王の万葉歌の時代、蒲の生える未開の地であった | 日本の歴史と日本人のルーツ

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百済遺民の入植地について、日本書紀天智8年(669)に「鬼室集斯ら男女7百余人を近江国蒲生郡に遷居」の記事があり、この頃、近江国の蒲生野に移された。

周辺の遺跡の発掘から、当時は開発困難地であったこの地方が、水田開発に技術を持った渡来人が力を注ぎ、良田になったといわれます。鬼室集斯は後に学識頭=今で云う文部大臣になっています(参考)。

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滋賀県蒲生郡日野町


参考

① 百済寺(ひゃくさいじ)は、推古14年(606年)10月21日に創建された近江の最古級寺院である。百済国からの渡来系の人々は、『百済』の発音として一度も『くだら』と呼んだことはなく『ハクサイ』 と呼んでいたことから百済寺は創建当初以来「ひゃくさい寺」と呼ばれていた。

なお、百済が「くだら」と発音されるようになったのは、多分白村江の戦(663年)後に天智天皇が大量の百済人を近江に受入れて蒲生野が開かれ奈良時代が始まった頃からだと推定されます(参考)。


② 額田王の歌、万葉集1・20「茜さす紫野、、、」の舞台とされて来た近江国の蒲生野



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現在知られている紫草の分布(参考)




⑤ 近江國蒲生郡(蒲生野)の一帯を古くは、佐佐木庄と呼ばれる以外にも、「鷦鷯郷(ササキノゴウ)」「篠笥庄(ササケノショウ)」などと呼んだらしく、特に、鷦鷯郷(ササキノゴウ)などは、大鷦鷯(オオサザキ)命との関連性を伺わせます。一説に、古代に、仁徳天皇の御名代部として、全国的に雀部(ささべ)が置かれましたが、この近江の蒲生郡の辺りに、その雀部があったのではないか?とも言われています(参考)。