済生会下関総合病院は秦氏の砦だった | 日本の歴史と日本人のルーツ

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鬼ケ城山の南に連なる龍王山系の山麓に秦氏の砦を発見した。これは、実は山口県済生会下関総合病院の敷地であった。ちなみに、下関市立考古博物館の遺跡調査で背後の山麓から古代の古墳が発見され、中世以降の改変は無いことは確認できる。

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山口県済生会下関総合病院、下関市安岡8丁目5ー1

梅ケ峠の砦(高天原であった)が秦氏に所縁の地であったが、この事実を見出す段階で、東にある鬼ケ城山の南方向に秦氏に関係がある地名「畑代」が下関市大字福江の小字にあることを指摘した。この字畑代の代は城ではないか検討している段階で近くの大字安岡の字後山の近くの済生会病院の敷地が秦氏系の神社の境内の形式あったことを思い出した。

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済生会下関総合病院が移転して来る前、南から北方向に見る。

以前、養鶏場であった時代より前の昔から平らな原野であったことを古老からも同様に確認している。
字畑代と字後山の間の辺りがヤマジョウというらしい、山城のことか?

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病院の裏山から、病院敷地、右手は南方向の安岡、綾羅木地域となる。県道244号線から撮影、旧北浦往還道と若干ずれている。

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病院東側の外来者用駐車場、
山麓をほとんど削っていない。秦氏の砦が出来て2000年近く平地であった。正面方向に龍王山、鬼ケ城山がある。右手奥に深坂溜池がある。

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外来者用駐車場敷地(左上)と下の職員駐車場敷地(目の前)との間の斜面は土地造成工事が為されていない、自然のままに右手の山に連続している。

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南方向、安岡、綾羅木地域

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西方向、響灘

ここから西には響灘が
あり、南西に北九州の北岸の若松半島、南には弥生、古墳時代の遺跡がある安岡、綾羅木地域が見渡せる。また、豊浦の宮と吉母、梅ケ峠を結ぶ旧北浦往還道(県道244号線)の途上にあり、要衝の地であった。


参考











⑥ 畑代

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今は表示されることのない地名、畑代があった。

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現在の航空写真

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昭和50年代の養鶏場